知の快楽 哲学の森に遊ぶ
HOME ブログ本館 東京を描く | 日本文化 英文学仏文学プロフィール 掲示板




全体性と無限:レヴィナスを読む


「全体性と無限」の序文を、レヴィナスは戦争への言及から始めている。レヴィナスは、「聡明さとは、精神が真なるものに対して開かれていることである」としたうえで、その「聡明さは、戦争の可能性が永続することを見てとるところにあるのではないか」といい、「戦争状態によって道徳は宙づりにされてしまう。戦争状態になると、永遠なものとされてきた制度や責務からその永遠性が剥ぎとられ、かくて無条件な命法すら暫定的に無効となる」という(熊野純彦訳「全体性と無限」から、以下同じ)。「戦争によって道徳は嗤うべきものになってしまう」というのである。もしそうならば、「私たちは道徳によって欺かれてはいないだろうか」。そうレヴィナスは問いかけるのである。問いかけの相手は、読者でもあるし、またレヴィナス自身でもあるようだ。

レヴィナスがこのように問いかけるのは、ひとりのユダヤ人思索者として、戦争がいかに人間性を破壊するものか、身をもって体験したからであろう。戦争状態のなかでは、従来無条件の価値を持つとされてきたものが、いとも簡単に踏みにじられてしまう。人々はスポーツを楽しむ感覚で、殺人を楽しむ。人の命は何よりも尊いという、従来は無条件の命法とされてきたものが、いとも簡単に踏みにじられてしまうのである。戦争状態においては、道徳は何の意味ももたない。そういう状態で道徳を持ち出すことが、反道徳的なこととなる。そういう状態では、人は道徳の名において殺人を合理化しかねないからだ。戦争を擁護する言説は、えてして道徳に仲裁者の役割を負わせるものなのだ。

レヴィナスが戦争という言葉で表現しているのは、国と国、民族と民族の対立という意味合いも無論あるが、それよりも彼が一人のユダヤ人として、先の大戦中に起こったユダヤ人に対するホロコーストを見せつけられたことのほうが大きな意味をもっているようだ。このホロコーストでは、六百万人にのぼるユダヤ人が理不尽な殺され方をされた。レヴィナス自身は生き残ったが、彼の肉親のほとんどはこのホロコーストの犠牲者になった。レヴィナスはそれに面して、茫然自失したに違いない。従来不動のものとされてきた基準や価値観がいとも簡単に踏みにじられたのだ。何故そんなことが起きたのか。レヴィナスはそう問わずにはいられなかっただろう。「全体性と無限」と題する書物は、その問いかけの提示と、それをめぐる思索を展開してみせたものである。人間は何故殺しあうのか、というのが問いかけをあらわす言葉である。このように問うことが、ホロコーストを生き残ったものとしてのレヴィナスの痛切な思いなのだろう。

レヴィナスはいう。「戦争において存在が示すことになる様相を画定するのが、全体性という概念である」と。「西欧哲学はこの全体性の概念によって支配されている。西欧哲学にあって、諸個体はさまざまな力の担い手に還元される。その力が、知らずしらずのうちに個体に命令を下すのである。個体は、だからその意味を全体性から借り受けていることになる」。その全体性が個体である諸個人に対して敵を殺せと命令すると、諸個人はその命令にほぼ盲目同然として従う。諸個人が殺すのは、戦争状態においては、生きた人間ではなく、敵という抽象的な概念を体化したしたものなのだ。敵を殺すのはある意味道徳的な行為なのである。なぜなら、道徳というものが共同体を維持存続するためにあるものなら、共同体を存続させるために、その消滅を図る敵を殺すのは、当然のことだからだ。

この場合の全体性は、それを構成する個人との関係において表象されているが、その個人自体もまた、全体性の概念で語られうるものなのである。その場合の全体性とは、個人の自己同一性というような意味合いで言及される。それぞれの個人は、自己同一的な存在であり、それは自分自身の内面を、自分をとりかこむ外部から差別化することで、自己同一性を保っている。差別化といったが、一方的な差別化ではない。自分に対して外部にあるものを、自分の認識の対象として、自分のなかに取り入れるという意味合いもある。つまり同化である。対象を対象として差別化するとともに、それを自分の認識作用の対象として自分自身のうちに取り入れる、この両義的な関係が、自己同一性のプロセスにおいては働いているのである。

全体性としての個人にとっては、自己の外部にあるものは、それ自体としては意味を持たない。それが意味を持つのは、自分の認識の対象となる限りにおいてである。自分の認識の対象であるから、それはいわば自分の都合によってどうにでもなるものである。カントのいう先験的認識とは、人間諸個人それぞれに特殊な認識ではなく、あらゆる人間に適用できる普遍的な認識ということになっているが、自分の外部にあるものを、自分の内部に備わっている枠組みに応じて認識するという点では、人間の都合に合わせて認識されるというところは変わらない。

人間の外部には当然他の人間も含まれる。それをレヴィナスは他者とか他性とかいう言葉で表現する。その他者を、全体性である諸個人は自分の内部に対象として取り入れようとする。そこに他者についての認識が成立するわけである。そうして成立した他者のイメージは、あくまでもそれを認識している個人との相関関係にあるものだ。まづ個人があって、その個人の認識の対象として他者が成立する。こういう場面においては、他者は完全に全体性としての個人に従属している。ということは、他者は個人の都合でどのようにもなる存在なのだ。

こういう捉え方が、他者について人間を鈍感にさせる原因になっているのではないか。そうレヴィナスは考える。他者に対して鈍感になれるからこそ、殺人を平気でやれるのではないか。もし他者が自分にとってかけがいのないものであれば、そう簡単に殺人ができるわけがない。それゆえ、殺人を抑制するためには、他者を正しく理解しなければならない。正しく理解すれば、そう簡単に殺人をできるわけがないのだ。そうレヴィナスは考えて、正しい他者理解を人々にせまるわけなのであろう。

西洋哲学はこれまで他者を正しく取り扱ってきたことがなかった、というのがレヴィナスの主張である。他者を正しく理解できなければ、殺人のような行為も止められない。西欧哲学は、一方では道徳とか倫理を説きながら、世の中に蔓延している殺人については、ほとんど無力だったのだ。そういう問題意識から、他者についての正しい理解をめざしたのが「全体性と無限」という書物なのである。

全体性が個人をあらわす言葉であることはこれで説明できたと思うが、無限のほうについてはどうか。無限とは有限に対立する概念である。全体性は閉じられた全体であることから、有限なシステムを意味している。その有限な全体性になにもかも吸収してしまおうというのが、西欧哲学に代表される現代人の立場である。しかし世の中には、全体性に包摂されないものがある。それが他者である。他者は全体性の枠の中に吸収されない。それはたえず全体性から逃れ出てゆく。あるいは全体性からあふれ出てゆく。そのように全体性のもつ有限性をあふれ出る存在、それを無限とレヴィナスは規定する。それゆえ「全体性と無限」の対立は、有限な全体性としての(私を含めた)個人と、その全体性からあふれ出る無限な存在としての他者との関係を表現しているのである。

以下、「全体性と無限」と題した書物を中心にして、他者についてのレヴィナスの思想を読み解いていきたい。



レヴィナスの他者論
レヴィナスにおける真理と正義
享受としての生:レヴィナス「全体性と無限」
所有と労働と家:レヴィナス「全体性と無限」
レヴィナスにおける女性的なもの
レヴィナスと死


HOME レヴィナス次へ







作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2015-2019
このサイトは、作者のブログ「壺齋閑話」の一部を編集したものである