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享受としての生:レヴィナス「全体性と無限」


レヴィナスの思想の核心は、他者をすべての始まりに据えることにあり、その他者との関係を中心にして<私>を考えるところにあった。といってレヴィナスが、<私>の自存性を軽視しているというわけではない。「全体性と無限」の第二部は、もっぱら<私>の自存性の解明にあてられているのである。この個所は、第一部で他者の意義を強調したあとに置かれているので、他者との関係における<私>の分析かと思えば、そうではない。あくまでも、他者を考慮に入れない次元での<私>の分析なのである。その分析のトーンは、ハイデガーを強く意識したものになっている。ハイデガーが現存在の世界内存在としてのあり方を分析して見せたのに対して、レヴィナスは世界を享受する主体としての<私>の存在の仕方を分析して見せるのである。

その第二部は次のような文章から始まる。「私たちは『おいしいスープ』、大気、光、風景、労働、観念、睡眠、等々によって生きている。これらは、表象の対象ではない。私たちはそれらによって生きているのである・・・道具を使用することは目的関連を前提し、他のものに対する依存をしるしづけているけれども、これに対して、~によって生きることは自存性をえがきとっている。享受とその幸福の自存性は、いっさいの自存性の本源的な構図なのである」(「全体性と無限」熊野純彦訳、以下同じ)

このように言うことで、レヴィナスは、<私>が「おいしいスープ」以下もろもろのものによって生きており、その生き方というのは端的に自存という在り方をとっているという。<私>は、<私>以外のものによって与えられたなにか特別の使命のために生きているわけではなく、ただ端的に存在している。そしてその<私>の存在の仕方は、「おいしいスープ」以下あげられたもろもろのものを享受するという形をとる。その享受は私に幸福をもたらす。その幸福は、<私>が生きていることからストレートにもたらされる。レヴィナスはいう。「生きているという単純な事実によって、私たちはすでに幸福のうちにある」と。

自存性ということについては、レヴィナスは次のようにやや詳細に説明する。「<私>の唯一性はたんに唯一の写本として存在するというだけではなく、類をもたずに現実存在し、なにかある概念の個体化としてではなく現実存在しているということにある・・・論理的には悖理である、唯一性のこの構造、唯一性が類にあずからないことが、幸福のエゴイズムである」

<私>という存在者は、<私>以外のものに存在の根拠をもたない。それが自存性だといっているように聞こえるが、レヴィナスの本意はそういうことではなく、わたしは類的存在としての<人間>という概念に吸収されてしまうようなものではなく、唯一者として、類とは無関係な存在でありうるということだと思う。その唯一者としての<私>は、「おいしいスープ」以下のさまざまななにかを享受しながら生きている。その享受がそのままストレートに幸福につながる。<私>は本来幸福になるように生まれついているのだ。

レヴィナスは言う。「<私>であるとは、存在することをすでに超えて幸福のうちにあり、そうしたしかたで現実存在することである。<私>にとって、存在することは対立することでもなく、なにかを表象することでもなく、なにかを使うことでもない。存在するとは、なにかを享受することなのである」

こう言うことでレヴィナスは、<私>つまり人間というものは、何かの使命とか目的とか、そうした自分以外の外部から与えられたものに存在根拠を持つものではなく、それ自体に存在根拠を持っていると言いたいのであろう。人間の存在根拠とは、人間の存在そのものなのだ。人間はこのように存在していることで、すでに存在の根拠を証明してしまっている。存在することが、存在することの根拠なのである。

こういう主張は、論理学ではトートロジーと呼んで、非論理的な言明だと批判されるところだが、人間が生きていることに、論理的な根拠などありうるだろうか。論理が存在を規定するのではなく、存在が論理を規定するのであるし、その存在がすでに現実として与えられているものであれば、なおさら論理は存在によって規定される。そうレヴィナスは主張しているかのように見える。

すでにして存在してしまっている<私>は、「おいしいスープ」以下のさまざまななにものかによって生きている。これらは<私>の享受の対象となるわけだが、それらの対象を<私>は所有できるわけではない。それらの対象を<私>は所有するのではなく、とりあえずは享受するのだ。「この所有不可能なものを、始原的なものと呼ぼう」。そうレヴィナスはいって、始原的なものは、とりあえずは所有の対象ではなく、<私>がそれによって生きるための糧という位置づけを帯びるのだとする。それらが<私>の所有の対象となるのは、それらとの間に<私>の労働が介在する場合である。

労働の問題はこの後の部分で詳しく展開されるが、とりあえずこの部分では、人間の現実存在の本質は享受であることがあらためて確認される。享受というのは、享受そのものが目的であって、なにかほかのものの手段としてなされたり、特別の効用をめざすわけではない。したがって純粋な浪費といってよい。目的とか効用とかを考慮しない享受は浪費としかいいようがないからだ。レヴィナスはいう。「効用もなく、純粋な損失として、無償に、他のなにものにも送り返されることなく、純粋な浪費として享受すること、ここに人間的なものがある・・・生きるとはたんなるたわむれであり、生の享受なのだ」

人間とは純粋な損失であり浪費である享受を楽しむようにできているのであって、人間が生きることはしたがって、生きること自体がすべてであるような生き方なのである。そのような生き方には、特別な理由はない。人間が生きることに特別な理由が必要なわけではない。そんな理由などお構いなく人間はこの世に生まれてくるのだし、生まれたその瞬間に存在しつづけるよう宿命づけられている。宿命という言葉が外的な動機を思い起こさせて具合が悪いというのなら、人間はそのように放り出されていると言い換えてもよい。

レヴィナスのこうした人間観は、西欧の哲学の伝統にあってきわめてユニークである。西欧哲学の伝統にあっては、人間が存在することについては、かならずなにか特別の理由が持ち出されてきたものだ。その理由は哲学者たちによってさまざまだが、どんな哲学者にも共通する思想は、人間が生きていることにはかならず理由があるというものだった。つまり西欧哲学は因果の呪縛から解放されていなかったわけである。

それに対してレヴィナスは、人間の存在の根拠を人間が生きている事実のうちに求めた。すでに事実として存在しているものには、その理由をあとづけで説明する必要はない。生きているという事実を謙虚に認めればよいのだ。こういう考え方は、ギリシャ以来の快楽主義を思い起こさせる。快楽主義は哲学者たちの間で不評をかってきたが、レヴィナスはその意義を積極的に認めて、「快楽主義的な道徳は永遠に真理でありつづけるのだ」とまでいう。さらに、「享受と幸福は自己へと向かう運動であり、その運動によってしるしづけられるのは、<私>の充足である」といって、快楽主義とその基盤となる享受の意義を強く主張するのである。

それゆえレヴィナスは、ハイデガーのようには、人間の存在の本来性とか、それからの逸脱とかを論じないし、ましてや人間の堕落とかを言わない。人間は生きているそのことだけですばらしい存在者なのだ。




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