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ある(Il y a):レヴィナスを読む


レヴィナスの小論「ある(Il y a)」は、存在としての存在、存在者とは切り離された存在、存在一般をめぐる議論である。しかしそのような議論が可能なのだろうか。存在とは、哲学史の王道においては、つねに存在者と切り離されることはなかった。存在とは存在者の存在なのであって、存在者から切り離された存在などというものはナンセンス、つまりは意味を持たないと考えられて来た。たしかに、プラトン以来の伝統においては、イデアは具体的な個々の存在者とは切り離された存在一般としての意味を持たされてはいたが、それは個々の存在者の原因となる限りで意味をもつのであって、個々の存在者と全く切り離されてきたわけではない。ところがレヴィナスは、個々の存在とは切り離された存在としての存在を議論しようというのである。この問題についてのレヴィナスの合言葉は、<存在者が存在する>ではなく、<存在が存在する>である。

<存在者が存在する>は、言語の統辞論においては、<なにものかがある>という形をとる。<なにものか>は主語であり、<ある>は述語である。主語はこの場合人称詞の形をとる。このように人称詞と結びつけて、<ある=存在する>と表現すれば、勢いとして、存在は存在者と結びつかざるを得ない。<存在する>は、主語である存在者の属性という形をとるからだ。したがって、<ある=存在>をその純粋な形、つまり人称詞で表された<存在者>とは切り離された、存在それ自体として論じるには、非人称的な表現を取り上げる必要がある。そうすれば、存在という働きが存在者と混同されるおとはないだろう。

存在することを非人称的な形で表現したものとしてレヴィナスが取り上げるのは、フランス語の<ある(Il y a)>である。フランス語においては、「あるは、人称形式を拒むがゆえに、『存在一般』なのである」(合田正人訳、以下同じ)。つまり、個々の存在者とは切り離された、存在としての存在ということになる。

こういわれても、人は存在の何であるかをイメージすることが出来ないだろう。存在としての存在とはいえ、具体的にイメージできなければ、人はそれについて有意義な思考ができない。そこでレヴィナスは、とりあえず夜のイメージを存在一般のイメージを代替するものとして持ち出す。夜は、あらゆるものを隠してしまう闇であるが、しかしその闇のなかには何も隠されていないというわけではなく、単に見えないだけのことである。闇に光があたればそこから隠されていた何者かが浮かび上がって来る。この関係においては、存在としての存在の代替物である夜の闇は、存在者の原因になっているわけではなく、存在者を隠しているにすぎなかった。ということは、存在とは普段は存在者を隠しているが、なにかの事情で存在の夜の闇がやぶられると、そこから存在者が浮かび上がってくるようになっているということだ。

これは、プラトンのイデアとはかなり違ったイメージだ。プラトンのイデアにあっては、イデアは、個々の具体的な存在者の原因になるものだった。イデアと影との関係においては、イデアが原因で影が結果である。影とは個々の具体物をさす。その影が生じるためには光が必要とされてはいるが、光の比喩は、プラトンにあってはあくまで便法であって、肝心なことはイデアが影の原因となることだった。ところがレヴィナスにおいては、存在としての存在をあらわす<ある>は、個々の具体的な存在者の原因になるわけではない。それは存在者を隠すことはあっても、存在者を生み出すことはない。単に隠されていたものが、そこから浮かび上がって来る闇の空間なのだ。

この夜の闇をレヴィナスは無と結びつける。レヴィナスはいう、「光を絶対的に排除するような状況にも経験という語を適用しえるのであれば、夜があるの経験そのものである・・・夜の空間は、われわれを存在一般に引き渡すのである」。その夜が無と結びつくのは、夜の闇の暗さが、「視覚に与えられる諸事物の輪郭を変容させるのみならず、これらの事物を、そこから滲み出る無規定でかつ匿名の存在へと連れ戻すのだ」

つまり、夜の闇は、事物を「無規定で匿名の存在」に連れ戻すことによって、事物を無化させるとともに、それ自身が巨大な無なのである。この無の闇にあっては、すべての存在者が姿を隠す。しかし、夜の闇としての存在そのものは、そこに存在を続ける。これを言葉で言い表すと、無が存在するということになり、形容矛盾で非論理的な言い方のように聞こえるが、世界とは合理的に割り切れるだけのものではないのだ。

無と存在の関係については、レヴィナスはポーの有名な小説<早すぎた埋葬>を援用して、生き埋めにされることへの恐怖は、「死者は十分に死なず、死のなかでもひとは存在するのではないかという猜疑」からくるのだと推論しているが、これは、事物は無のなかでも存在するということの隠喩的な言い換えなのであろう。

その無のなかからいかにして存在者が存在するようになるのか、つまり夜の闇のなかから明確な形をとって現われるのか。

この疑問については、レヴィナスは、ベルグソンの議論を援用しながら考察している。「ベルグソンによると、否定は、それがある存在を放棄して別の存在を考えようとする精神の運動であるかぎりで積極的な意味をもつもので、そのような否定が存在全般に適用された場合、それはもはや何の意味ももたなくなってしまう。存在の全体を否定すること、それは、意識が一種の暗さのなかに没することだが、この暗さにおいても、意識は、少なくともこの暗さの意識であるというその機能を維持する。したがって、全面的否定は不可能であり、無を思考することは~錯覚である」

ひとは無そのものを思考することは出来ないが、したがって存在の全体を否定することは出来ないが、存在を部分的に否定することはできる。それは、存在に破れ目が生じることを意味する。この破れ目から、存在者が具体的な形をとってあらわれる。そうレヴィナスは、ベルグソンとともに考えているようである。

レヴィナスは強調していう、「不在の現存としてのあるは、矛盾を超え出ている」と。またこうもいう、「無を存在の限界ないし否定として考えることは不可能だが、無を間もしくは中断として考えることはできないだろうか・・・あるの普遍性における無というこの間、この停止点、この瞬間は、基体化の条件ではなかろうか。言い換えるなら、あるの匿名かつ普遍的な騒めきの只中で、実詞が、名詞が、名前が出来するための条件ではなかろうか」




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