知の快楽 哲学の森に遊ぶ
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サルトルのフォークナー論


サルトルは、フォークナーを世界でもっとも早く評価した。「サートリス」を取り上げたのは1938年のことだし、「響きと怒り」を取り上げたのはその翌年のことだ。いずれも刊行から10年くらいしかたっておらず(両作品とも1929年刊行)、フォークナーはまだ無名だった。サルトルがフォークナーを紹介したことで、フォークナーはまずヨーロッパで名が知られるようになり、その後アメリカに逆輸入されたような形だ。ここではサルトルのフォークナー論のうち、「響きと怒り」を論じた「フォークナーにおける時間性」を取り上げてみたい。

「『響きと怒り』を読むと、まず手法の奇妙さに打たれる」(渡辺明正訳)。サルトルはこの小論をこう書き始める。たしかにフォークナーの作品は奇妙な手法からなっている、そう感じるのはサルトルだけではあるまい。しかし現代の読者と異なって、サルトルがこの小論を書いた時代には、このように奇妙な手法はまったくと言ってよいほど存在していなかったので、その印象は強烈だったと思われる。では、どこが奇妙なのか。サルトルは、続けて書いている。

「小説手法はつねに小説家のいだく形而上学に関連する。批評家の任務は、小説手法を批評する前に、この形而上学を抽出することである。ところで、フォークナーの形而上学が時間の形而上学であることは一目瞭然だ」(同上)。つまりサルトルは、フォークナーの手法の奇妙さは、彼の時間の扱い方の奇妙さに由来していると解釈しているわけである。

フォークナーの時間には未来がない。過去はあるにはあるが、それが意味を持つのは各瞬間としての今現在となんらかのかかわりを持つ限りにおいてである。本当に意味をもつのは現在だけである。人間というのはフォークナーにとって、現在の総和であるに過ぎない。「だから時計を壊すクエンティンの動作は象徴的な価値をもっている。それはわれわれを時計なき時間に到達せしめる。時刻を読めない白痴のベンジイの時間もまた時計がない・・・フォークナーにおいては決して前進がない。なにものも未来から来ない・・・現在であるということは、理由なく現れ、没し去ることである」(同上)

こうしたフォークナーの時間意識にサルトルは、フォークナーの人間性に対する絶望を見ている。人間が現在の総和に過ぎないのなら、彼が生きてきた過去や、未来というものに何の意味があるのか。人間はただ、現在を生きるだけだが、その現在というのが、理由なく現れ、没し去ってゆくものなら、その現在の総和である人間の一生になんらかの意味があるとはいえなくなる。

サルトルは、フォークナーをプルーストと比較しながら、この二人の時間意識の相違を明らかにしている。二人とも、人間の意識の時間的な流れを追いながら、その意識のなかにふと過去の出来事が割り込んでくるさまを描くという点で共通性があるのだが、その場合に過去のもつ意味が決定的に異なっている。プルーストの場合には、過去はそのものとしては失われたとはいえ、現在との生き生きとしたつながりをもっており、それを思い起こすことで、人は失われたものを取り戻し、それによって自分の人生を充実したものと感じることが出来る。ところがフォークナーの場合には、過去は失われてはいない。ただそれのみでは意味を持たないだけだ。それは、プルーストが時間を過去から未来へと流れてゆくものだと考えているのに対して、フォークナーが時間そのものを信じていないことからくる、相違だといえる。

二人の姿勢のこの相違をサルトルは、プルーストが古典主義者でありかつフランス人であるのに対して、フォークナーが規範なき現代を表現しているアメリカ人の作家である点に求めているようだ。「フランス人というものは高利で産を破るが、かならずしまいには道を見出すものだ。雄弁と、明晰な観念の趣味と、主知主義とが、せめて年代性の外観を保つことをプルーストにしいた」(同上)というわけである。

この小論におけるサルトルのスタンスは、ハイデガーの影響を強く受けていることを感じさせる。ハイデガーが人間を時間的な存在として捉えたことはよく知られている。彼の主著が「存在と時間」と題されていることが、それを象徴的に物語っている。その時間とは、未来へと向かって流れてゆくものだ。その未来とはハイデガーにとっては「死」に収束される。ということは、人間とは死すべき存在だ、というのがハイデガーの根本テーマだということだ。死すべき存在であるからこそ人間は、死を基準点して自分の存在を考えるように出来ている。死を直視しないものは、自分の本質存在から眼をそらしているのだ。

ともあれハイデガーは、人間存在を時間とのかかわりにおいて究明した。その姿勢をサルトルも採用して、人間を時間的な存在と見ている。そういう立場からフォークナーを見ると、この時間性を破壊しようとしている作家は、いかにも非人間的に映るのではないか。人間は時間的な存在として、つねに未来を展望し、未来に企投しなければならない。サルトルの考えでは、「人間は現在彼がもっているものの総和ではなく、彼がまだもっていないもの、彼がもちうるであろうものの合計である」(同上)。ところがフォークナーは、未来を締め出すことで人間の可能性を矮小化させる。それは人間から時間性を排除した必然の結果だ、そうサルトルは批判するわけである。

サルトルは言う。「私は彼の技巧を愛する。だが彼の形而上学を信じない。さえぎられていても、未来はやはり未来だ」(同上)

なおサルトルは、「響きと怒り」の題名の典拠であるシェイクスピアの文章を引用している。「マクベス」の第五幕でマクベスがつぶやく有名な言葉だ。「人生とは馬鹿者の語る物語だ。何の意味もなく、響きと怒りで満ちている」(it is a tale Told by an idiot, full of sound and fury, Signifying nothing.)。フォークナー自身が人生をこのように見ていたのか、それともそのように見るフォークナーをサルトルが馬鹿者と見ていたのか、何ともいえないところだ。


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