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丸山真男「日本政治思想史研究」


丸山真男の「日本政治思想史研究」は、徳川時代の日本の政治思想、それも儒学を中心に考究している。丸山がこの研究でめざしたのは、日本の近代化を推進した思想が、どのような地盤から生まれてきたか、を明らかにすることだった。丸山は、日本の近代化は、あたり前のことであるが、無から生まれたのではない、それを用意した母胎から生まれたのだと考えている。その母胎となったのは徳川時代の政治思想であったから、それを明らかにすることで、日本の近代化の思想的原動力となったものがよく理解できるに違いないと思った。それは直接的には、荻生徂徠の政治思想と宣長を中心とした国学によって担われた、しかして徂徠学は、儒学(とくに宋学といわれた儒学の流れ)の伝統の延長上にあるものであるし、国学は儒学の否定から出て来た。したがって、徳川時代の儒学を研究することこそ、日本の近代の政治思想を理解するためのかなめになる。そう丸山は考えて、徳川時代の儒学を中心とした思想の流れに焦点をあてて、日本政治思想史を書いたというわけであろう。

この著作は、二本の長い論文と一本の小文からなっている。長文の一つである第一章「近世儒教の発展における徂徠学の特質並にその国学との関連」は、宋学=朱子学の静的な世界観が次第にほころびて、動的な世界観が生まれてくる過程をたどる。荻生徂徠の徂徠学と宣長らの国学は、そうした動的な世界観として、儒教の静的な世界観を乗り越えて、近代の政治思想を準備したものと位置付けられる。第二章「近世日本政治思想における『自然』と『作為』」は、第一章で概括した静的な世界観と動的な世界観との関係を、自然と作為の対立という形で、あらためて論じ直したものだ。その際に、第一章が、思想の内在的な発展過程に焦点を当てているのに対して、第二章では、思想の発展を現実の社会の変化と対応させながら論じているという違いを認めることができる。

まず第一章。この章は、先に述べたように、儒学の内在的な発展をたどり、その先端に荻生徂徠の徂徠学を位置付ける。徂徠はあくまでも、儒学の枠内での究極の形という位置づけであり、それに対して国学は儒学の否定という位置づけだ。儒学を否定しながら、国学とくに宣長は、徂徠学との親縁性も感じさせる、と丸山は言っている。ともあれ、儒学は静的な世界観を展開していたわけであり、それを徂徠と国学が動的な世界観に転換させたというふうに丸山は考えているわけだ。

儒学が徳川時代の公認の学問として、日本の政治思想のみならずあらゆる思想の基盤となったことは広く了解されている。筆者などはそれを、かなり偶然によるものと考えているが、丸山は必然的なことだったと言っている。徳川時代というのは、封建的な制度が厳然と確立した社会だったわけだが、その封建的な社会制度にとって、儒学とくに宋学=朱子学はもっとも馴染みやすいものだった。朱子学の特徴は、「宇宙と人間を貫通する形而上学を樹立した」ことにあった。宇宙も人間も一つの共通の原理によって説明され、しかもそれは基本的には閉じた静的な体系だとされた。世の中のすべてのことは、秩序だった動きをしている。それを朱子学は天地自然の性という言葉を使いながら、人の作為を排除ないし軽視した。そういう静的な世界の捉え方が、徳川封建社会の閉じた体制のあり方に親和的だったわけである。だから、朱子学が徳川時代における支配的な思想となったのには、それ相応の原因があった。そのように丸山は捉えるわけである。

徳川時代の政治思想の歴史はだから、朱子学から出発し、それが次第に変化・発展するプロセスとして丸山は捉える。そのプロセスは、巨視的には社会の矛盾を反映したものであるはずだが、丸山はとりあえず、思想の内在的な変化・発展というふうに捉える。朱子学が内在的な変化をとげ、その変化の先に徂徠学が、必然的な結果として生まれて来たというわけである。そして徂徠学が一つの衝撃となって、徂徠が攻撃した朱子学を、宣長らの国学も攻撃するようになった。彼らにとっては朱子学が自分の敵であった限りは、共同戦線をはることができたのであり、事実宣長には、徂徠への共感を認めることもできると丸山は言っている。

徳川時代に朱子学を日本に導入したのは、藤原惺窩とその門弟林羅山である。とくに林羅山は朱子学を支配の学として体系づけた。体系づけたと言っても、朱子学をそのまま輸入しただけの話で、独創性は全くなかったと言ってよい。要するに、朱子学の思想を以て徳川封建社会の身分秩序を合理化しただけの話である。

徳川時代の日本の思想の発展は、この朱子学に代表されていた儒学が次第に変化・発展する過程としてとらえられる。その変化・発展に寄与した人物として、山鹿素行、伊藤仁斎、貝原益軒といった人々がとりあげられるが、いずれも儒学者には違いない。これに同じく儒学者の徂徠が加わるわけで、その面々を見ると。徳川時代における日本の思想は、儒学一辺倒だったと、あらためて思い知らされるのである。

その儒学を基盤として徂徠学が現れたわけだが、その徂徠学の特質を丸山は、人間の作為の強調に認めている。朱子学は静的な世界観を奉じて、そこには人間の作為が働く余地はほとんどなかった。世界の変化・発展というものは、人間の作為を前提にしているわけだから、その作為が働かなければ、世界が変化することもないわけである。ところが、世界は確実に変化している。それも、徂徠をはじめとして統治者の側にいるものには、悪い方向に変化していると見えた。その変化に何とかして対応せねばとんでもないことになる。徂徠が「政談」や「太平策」で展開して見せたものは、そうした危機感を反映している。徂徠はその危機を、君子の作為によって乗り越えようと考えた。「政談」などで徂徠が提起した政策は、原始時代に戻れというようなもので、とても現実の社会に対応できるようなものではなかったわけだが、しかし、世の中は人の作為によって変わることができるものであり、また現実に変わるものだということを、人々に示したことに徂徠の思想史上の意義があると、丸山は考えている。

徂徠がそんなふうに考えたわけは、彼が武士階級の立場に立って、武士階級の利益を代表していたからである。徂徠の父親は医者であって、武士ではなかったが、息子の徂徠は武士としてのメンタリティをもっていた。そのメンタリティには中途半端なところも見受けられるが、すくなくとも徂徠の主観においては、武士としてのこだわりが強かったと思われる。そうした徂徠とは全く逆の立場から、徳川封建制の矛盾に向きあったのが安藤昌益である。丸山は昌益にも多少のページを当てて、その思想史上の意義について触れている。昌益は全く孤立した存在で、その名が広く知られることもなく、したがって思想史上には全く何の影響も及ぼすことはなかったのだが、その思想はユニークなものだった。昌益は社会の矛盾を前にして、徂徠とは全く逆に、武士を無用のものとして、その排除を主張した。実際武士は、官僚としてはともかく、身分としては全く無用のものになっていたのである。その無用の武士の救済策を徂徠は考えたわけで、そこに丸山は徂徠の反動性を認めてもいる。その反動的な徂徠が、日本の歴史を前に進ませる原動力になったということに、丸山は歴史の狡知を感じたようである。



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