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丸山真男の国学論


徂徠学と国学とは、一見水と油のように見える。徂徠学はなんといっても儒学の一派であるし、要するに異国起源の学問だ。その異国起源のものを国学者たちは蛇蝎の如く忌み嫌った。宣長などはその最たるもので、漢(から)つまり中国を、悪人の跋扈する国であるかの如くに言っている。だから、その漢の学問に従事している徂徠も、悪人の仲間と見なされそうだが、実はそう単純ではない。両者の間には、独特の親縁性がある。そう丸山真男は見るのである。

徂徠学は、聖人つまり人間の作為を原理とする一方、公と私とを峻別し、公を政治の領域として厳しく捉えたのに対して、私は内心の領域として、個人の自由を尊重した。そうした態度は、儒教的リゴリズムからの一定の開放をもたらした。従来の儒学つまり宋学=朱子学は、公と私とを連続的に捉え、公はもとより私の領域についても自大主義的なリゴリズムを求めた。徂徠は、私については個人の自由にゆだねることで、その領域では非リゴリズムが栄える基盤を用意したのである。

宣長らの国学は、私の領域についての非リゴリズムを徂徠と共有していた。そこに丸山は徂徠学と国学との接点を見るわけである。また、徂徠は政治・社会のあり方を聖人の作為に基づかせることで、政治の変革に道筋をつけた。徂徠の場合には、聖人の作為を担うべき立場にあるものは、徳川封建社会にあっては将軍以外にはなく、その将軍が当面する社会の矛盾を解決するために、制度を作為することを徂徠は期待したわけだった。そうした徂徠の考え方に対して、宣長らは、政治が人間の作為によるものだとしたら、それは人間の手でいかようにもなるものだとの、政治に対する相対的な視方をするようになった。徂徠が、作為を変革の原動力として積極的に期待したところを、国学は、作為を以て政治・社会制度を相対的に見る視点を獲得したと言える。

このような具合で、徂徠学と国学との間には、人間の作為を政治・社会の原動力と見なす視点や、私の領域での非リゴリズムの尊重という点で、共通するところがあったと丸山は捉えるわけである。これは歴史を人為によって変化するものと見る点で、儒学本流の考え方とは百八十度異なっていた。儒学本流の考え方は、宇宙と人間とを同じ原理によって説明し、しかもその原理を不変のものとしていたから、政治や社会の変革の論理は、そこからは出てこなかったわけである。しかし、徂徠学と国学とは、どちらも政治・社会変革の論理を内在させていた。それが日本を近代化に向けて引っ張っていく原動力になりえた。そのように整理することで、丸山は徂徠学と国学とを、日本の近代化を思想的に準備したものとして同等に位置付けたのである。

とは言っても、徂徠学と国学では、政治・社会についての姿勢がかなり違っている。その姿勢は、現実の社会の矛盾への彼らの対応によく現われている。先ほど述べたように、徂徠は徳川将軍を同時代の聖人に見立て、将軍が制度を立てることで政治・社会の矛盾を解消しようと考えたのであったが、その具体的な方策たるや、全く反動的なものであった。彼は、今の社会が抱える矛盾は、商業経済の普及にその原因があるのだから、商業を抑圧して、昔のような物々交換の時代に戻るべきだというような、ある意味荒唐無稽な政策を進言していた。それは、徂徠の武士としてのメンタリティに出たものというべきだろう。徂徠は、自分自身の階級的な利害にとらわれるあまり、世の中の動きとは真逆の、つまり反動的な政策しか考え及ばなかったと言えよう。

これに対して宣長のほうは、政治に対して積極的にかかわろうとする意欲を見せない。宣長の政治への基本的な姿勢は、徳川幕府の政策に文句を言わずに服従するというものだった。だがそれは、徳川幕府の政策が絶対的に正しく、永遠の生命を持ち続けると考えたからではない。たまたま徳川幕府が、自分の生きている時代を統治している。その統治に対して、自分たち市井の人間が従うのは当たり前、というよりか無難だ、というような考えからだ。つまりそこには、為政者に対する絶対的な信頼はない。だから、為政者が代われば、新しい為政者に服従をすればよいということになる。これは権力というものを相対的に見る考えであり、したがってそこからは、権力の交替というような考えが生まれて来る余地がある。

徂徠は聖人の作為をもとにして、世の中の制度を作り直すことを考えたわけだが、宣長は、世の中が聖人の作為によって作られるものならば、今の体制とは異なった政治・社会のあり方も十分考えられるということを示唆しながらも、当面は現状に満足していたということなのだろう。いずれにしてもそこには、体制への一体感のようなものは見られない。この差異は、かれらの階級的な出自に根差しているのだと思われる。徂徠は武士のメンテリティを以て、武士の階級的な利害を夢想したのに対して、宣長は町人のメンテリティを以て、権力に対して冷めた見方をしていたのだと言えよう。


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