知の快楽 哲学の森に遊ぶ
HOME ブログ本館 東京を描く | 日本文化 英文学仏文学プロフィール 掲示板




政談3:荻生徂徠の役儀論


国の締まりや経済・財政を実際に取りさばく者は役人である。したがって役人の器量や彼らの使い方が、政治をよくするためのポイントとなる。そう徂徠は言って、役人の望ましいあり方について提言する。それを徂徠は役儀という。徂徠の役儀論は、今で言えば公務員制度論のようなものと考えてよい。公務員の良し悪しは、いまでも一国の政治のかなめとなるものだが、徂徠の時代にあっても、いや、その時代だったからこそ、喫緊の課題として意識されたのだろう。

徂徠の時代は身分社会であったから、誰でも役人になれるチャンスがあったわけではない。武士であることが最低の条件だったし、武士であっても、高い格式の家の者でなければ、高位の役職には就けなかった。これだけでも、適材適所の原則に反するのだが、一定の役職が家の格式と密接に結びついていたので、無能なものでも高位の役職に就き、その結果政治に停滞をもたらす。無能の者を解職しようにも、一旦高位の職に就いた者を、それ以下の職に格下げするわけにいかない。そういうわけで、当時の役人は非常に硬直した人事制度のもとにあった。それを改革して、能力ある者に政治を行わせるようにしなければならない、というのが徂徠の基本的な考えだった。

徂徠がまず提言するのは、官位と家の格式とを分離することである。それによって、比較的低い格式の者でも高い官位に着かせることができる。また、格式の高い家の者でも、無能なら官位からはずすことが容易になる。最もそれには限度というものがあり、たとえば御家人に奉行をさせるわけにはいかないだろうが、それでも従来の硬直した人事制度よりは、ずっと風通しが良くなるはずである。

徂徠の提言のなかで実際用いられたものとして足高制というものがあるが。これは、一定の役職について、その役職に相応しい待遇を給与するというもので、一種の業績主義である。従来は、高い官位につくと、それにともなって禄高そのものが上がるのだが、その禄高は世襲のものになって、当人が役職を退いた後にもずっと給与が保証されていた。徂徠はそれを改めて、当該の役職についている期間だけ、それに相応しい待遇をし、退いた後には、それを停止するという方法を主張したのである。これは、官位と役職とを分離するという、徂徠の考えを反映した措置であった。

こうした徂徠の合理主義は、役人の仕事の仕方にも及ぶ。当時の役人には、定まった仕事の仕方というものがなく、役人個人の才覚にまかせていた。それでは、職務の連続性というものがなくなり、また能力の低い者が地位に就いた時には行政の停滞が生じる。そういうことを避けるためには、各官位の職務の内容を具体的に定めおいて、誰がその官位についても滞りなく進むようにしなかればならない。その職務規定のようなものを、徂徠は留置帳といっている。要するにマニュアルのことである。行政にマニュアルの考えを持ち込んだのは、徂徠が初めてではないか。

当時の行政を主に担っていたのは、町奉行以下の奉行職だが、その仕事の範囲があまり明確になっていない。奉行職は、自分にまかされた領域については全面的な権限をもっていた。その権限は、今風にいえば、行政権と司法権からなり、場合によっては立法権まで持つという包括的なものだった。しかし実際には、司法権の行使たる公事に勢力をさかれ、行政のほうはおろそかになりがちだった。その司法権の行使も、庶民から上がって来る訴訟に受け身で取り組むというものであって、それはそれで仕方のないところもあるが、それに忙殺されることで、民の統治ということがおろそかになる。しかし施政者の本来の任務は、民を住みやすくすることにあるから、それをおろそかにして、民の暮らし向きが悪くなるのは、施政者の責任とわきまえねばならない。しかいいまどきの施政者にはそういう自覚が足りないと徂徠は厳しく指摘している。

こうした弊害を取り除くためには、公事については公事奉行を設けてそれに専管させ、町奉行などは統治の仕事に専念できるようにすべきだと、一種の分業論を徂徠は勧めている。徂徠は言う、「寺社奉行も地方奉行も町奉行も、当時は公事を捌くことを重とする故、治の方のことは誰心附くものなし。治悪きときは、公事も悪事も止ぬ事也。公事のことは、別に公事奉行を立て、法律に通達したる人を用ゆべし」

仕事の仕方とともに重要なのは人の使い方である。上に立つ人は、なんでも自分で仕事を抱え込み、下の者に細かく指図する傾向があるが、これはよくない。上に立つ人の能力が優れていればまだしも、大部分は無能な人が指図するので、都合の悪いことが起りがちだし、下は下で、そんな上司を馬鹿にして、規律のゆるみも生じる。上は、基本的な方向付けをするだけで、具体的な仕事はなるべく下にまかせるべきである。なぜなら、下にも優れた人材があるのだし、そうした人材を掘り出して登用するというのが、上に立つもの本来の役割というべきなのである。徂徠は、「下賤なる人は貴人よりも才知ある者也」といって、有能な人材の登用を呼びかけたのである。徂徠自身がどちらかといえば下賤の出であったので、これは彼自身のホンネを言っているのだと思う。

ところで、上に立つ人は、一癖ある人物を使いたがらぬ傾向があるが、これは間違っている。一癖あるくらいの人物に優れた者は多いのだ。一癖もない人間は、器量が小さい場合が多い。だから一癖ある人材を積極的に使う気持ちを上の者は持たねばならない。老中や番頭以上の高位の役人ほど、人材の発掘に努めねばならない。そういう人たちは、「唯人を取り出すことを我が第一の職分と心得て、さやふのひとを取り出すことを昼夜に心掛くべき也」

そうであればこそ、上に立つ者にはゆとりがなければならない。ゆとりがなければ、職務に必要な知識の獲得にも支障があるし、有能な人材の発掘もできようがない。徂徠は言う、「総じて役人は隙に無くては叶はざる者也。殊に上位に立つ大役の人程、隙に無くては成るまじきこと也。御老中・若老中等は御政務の全体へわたる大役なれば、世界の全体を忘れては、役儀に抜けたる所生ずべし。ひまにして工夫をもし、又時々に学文をもなすべき也」

こうしてみると徂徠は、実に合理的で、因習にとらわれない大胆な提言をしているように映るが、因習的なところもある。それを物語るのは、朝鮮からの使節団の接遇についての徂徠の意見である。従来、使節団の三使(正使、副使、従事官)の接遇には御三家をあてていた。これは、将軍家を朝鮮王と同格と見る時は不都合なことである。徳川家が朝鮮王と同格とみれば、御三家は王族となり、家臣ではない。その王族を、朝鮮王の家臣と同格に扱うのは、将軍家をあまりにも卑下している。そう徂徠は言って、朝鮮使節団の接遇を一段軽くするように主張した。

実はその主張は白石もしていて、家宣の将軍職就任の際の朝鮮使節団の来聘にあたっては、使節団の接遇役を御三家から大名に引き下げた。ところが徂徠は、「新井なども文盲なるゆえ、是等のことに了簡つかぬなり」と罵っている。これは白石に対する言いがかりというべきで、朝鮮使節団に対して従来通り御三家が接待役をつとめたのは、吉宗のときだったのである。つまり、徂徠が仲間意識をもっていた吉宗の周囲のほうが、朝鮮使節団を重く迎えたのである。




HOME 日本の思想荻生徂徠次へ







作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2015-2019
このサイトは、作者のブログ「壺齋閑話」の一部を編集したものである