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学則:荻生徂徠の学問論


荻生徂徠の著書「学則」は、学問論というか、学問をする上での心得のようなことを記したものだ。学則の即とは、学問をする上でのっとるべき規則というような意味である。その規則を徂徠は七つの項目にわたってあげている。それらを読むと、徳川時代における、学問についての標準的な考え方がわかるようになっている。徳川時代の学問とは、宋学を中心とした儒教の体系であったから、徂徠の学問論も、おのずから儒教について語るというふうになっている。何故、儒教だったのか。その理由に触れると長話に渡るが、要するに儒教の名分論が、徳川時代に安定化した封建的な身分関係によくフィットしたからだと思う。

第一項は、何故我々日本人が中国の学問である儒教を学ばねばならぬのか、ということについて述べている。つまり当時の学問の王道であった儒教の存在意義について述べたものだ。徂徠は言う、「東海、聖人を出さず、西海聖人を出さず」と。東海とは日本のこと、西海とはインド以西の国々を言う。つまり中国以外の国々というような意味だ。それらの国々では、日本を含めて、聖人が出なかった。聖人が出たのは中国だけである。ところで学問とは、聖人の道を学ぶことであるから、勢い中国以外の国々の人々も、中国の聖人の道を学ばねばならない。その聖人の道とは、孔子の示したものであって、我々の前に儒教という形で与えられている。したがってその儒教を学ぶことこそが、学問の内実をなすのは当たり前のことなのである。

というわけで、徂徠にとって学問とは、中国伝来の儒教だったわけである。その儒教への信頼を徂徠は、ほとんど無条件で、非常に素朴な姿勢を以て表明している。儒教は徂徠にとって、いわばアプリオリな前提なのである。アプリオリなのだから、その根拠を更に問うようなことはしない。儒教はいわば天命として、我々日本人にも与えられているものなのである。

そこで儒教の学び方であるが、儒教は中国の学問であるから、もちろん中国語で書かれている。日本人にとっては外国語なわけである。その外国語を、日本人はどのように読んで来たか。日本人は器用な民族で、外国語を外国語として読まず、日本語に転換して読んで来た。つまり漢字に和訓を施したり、漢字の配列を上下逆転したりして、日本語に置き換えながら読んだ。そのやり方を開発したのは吉備真備であったが、吉備氏のおかげで日本人は、中国語を日本語を読むように読むことができるようになった。しかし、それでは、「これを目にするときは是」でも、「これを耳にするときはすなはち非」である。何といっても中国語は外国語なのであるから、無理に日本語に転換しないで、外国語として読んだ方が望ましい、と徂徠は言って、できたら中国語の発音のまま儒教の文献を読むようにと勧めている。

第二項は、言葉の変遷とそれに伴う学問の変化にどう対応するかについて述べる。言葉は時代の移り行きにともなって変遷する。中国語も例外ではない。古言と今言とでは、同じ文字を使っていても意味を異にする場合があるし、また言葉を通じた考え方そのものが変ってしまう場合がある。だから、古言で書かれた古い時代の文献を読むためには、今の時代の言語感覚で読んではいけない。古い時代の言語感覚を身に着けて、その感覚を以て読まねばならない。でなければ、儒教本来の思想を正しく学ぶことは出来ない。徂徠はそのように主張し、自分自身も「古を視て辞を修め、これを習ひこれを習ひ、久しうしてこれと化し、しかうして辞気・神志みな肖たり」といって自慢している。

ともあれ第一項が、地理的な相違を越えた学問の伝播について述べているのに対して、第二項は、時間の変遷に伴う学問の変化について述べているわけである。

第三項は、老荘思想の批判である。なぜ学問論の中にわざわざ老荘批判を織り込んだか。その理由は、当時宋学を始め中国の学問に老荘思想の影響が甚だしかったからである。儒教の本来の目的は聖人の道を明らかにすることにあるが、道とは聖人が人為的に作った制度のことを言う。ところが宋学は、道とは天地自然の道だと言って、人為ではなく、天の法則としてあるものだと主張した。これは妄言というべきで、その妄言は老荘思想に毒されたことに由来する、そういう問題意識があるわけだから、徂徠は声を大にして老荘思想を排斥するのである。老荘思想は、儒教本来の姿をゆがめる最大の害悪だというわけである。

第四項は、聖人について述べる。聖人は古い時代にだけ現われて今の時代には現れなくなった、というのが徂徠の基本的な認識である。なぜ現れなくなったのか、その理由を徂徠は詳しく語ることがないが、とにかく今の時代には聖人がいないのであるから、我々としては、古い時代の聖人が残してくれたものを大事にしなければならない、そう徂徠は考えるのである。何故なら我々が依拠すべき道は聖人の道であり、その聖人が古い時代にしか現れなかったとすれば、その古い時代の聖人が残した教えを大事にするほか方法はないからである。もっとも、古代と現在とは全く同じものではない。現在には現在なりの姿というものがある。だから古代の道をそのまま現在に適用するにはムリがあるかもしれない。そこのところをよく考えながら、古い時代の聖人の道を現在に生かすのが君子の役割というものだ、と徂徠は考えるのである。

第五項は、聖人の道の活用について述べる。聖人は今の時代には現れなくなったゆえに、古の聖人の残した道を現在にあてはまるようにアレンジしなければならない。その役割は君子が果たすべきだというのが徂徠の考えである。現代には聖人は現われるべくもないが、君子ならいくらでも現われる余地はある。君子は聖人の道を学んで徳を体得し、以て世界を導くという使命を負っているのである。

第六項は、その君子たるものの心得について述べる。その心得を徂徠は、「君子は軽々しく人を絶たず、また軽々しく物を絶たず」と表現している。なにごとにも気を配れというような意味である。なかでも大本に気を配るが肝要だと言っている。大を制せば小もよく制す、というとおり、大本さえ押さえれば、その他の小事はおのずから収まるというわけである。

第七項は、天命と人性の関係について述べる。天命というのは必然的な法則というような意味であり、人性というのは、人間個々人の個性のようなものである。天命を知らざれば君子とはいわれないが、その君子には個性に応じてそれぞれの才に差異がある。君子は自分の才を最大に活用して、世界を導いて行くべきだというのが徂徠の考えである。

こうして見ると徂徠は、中国の古の聖人が立てた道を根本的な規準として、それを君子が時代に相応しいように実践していくべきだと考えていたことがわかる。その場合に、徂徠が君子としてイメージしていたのが、徳川幕府の為政者、とくに将軍だったことはいうまでもない。それゆえ徂徠の学則は、徳川幕藩体制擁護の書という意味合いを持たされていたと考えることができる。徂徠はこの書を、存命中に刊行し、門人はじめ多くの方面のテクストとして利用させた。いかに徳川封建体制を安定的に運営していくべきか、そのことこそがこのテクストの存在意義だったわけである。




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