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江藤淳の戦後日本批判


江藤淳といえば、今日では比較的穏健な保守主義者というイメージが流布しているようであるが、彼の政治評論の代表作といわれる「『ごっこ』の世界が終わった時」を読むと、変革を志向していた改革家としてのイメージが伝わって来る。普通保守といえば、社会の現状を支えている制度・思想を尊重する姿勢を言うが、彼がこの小論の中で展開しているのは、同時代の日本の現状に対する痛烈な批判であり、それを乗り越えようとする意志だからだ。

江藤は同時代の日本を、「ごっこ」の世界だといって批判する。この言葉を江藤は広辞苑を引きながら定義するのだが、広辞苑では「或る事物の真似をする遊戯」とあるのを手掛かりにして、「ごっこ」とは、「現実から一目盛ずらされて、そのためにいわば希薄になり、緩和された行為」という風に定義する。そのうえで同時代の日本を「ごっこ」の世界とよく似ているといい、「実際この社会は、真の経験というものが味わいにくい社会である。どこかに現実から一目盛ずらされているという感覚がひそんでいて、そのもどかしさと、そのための自由さ、身軽さが混在している」と批評している。つまり、江藤は同時代の日本を現実から目を背けた遊びの世界だと見ているわけである。

社会全体が遊戯として成り立っているので、その社会に起こる出来事は、なにもかも現実性を持たない。江藤がこの文章を書いた頃には、学生による「革命運動」が盛んだったが、江藤によればそれも革命「ごっこ」であり、またその正反対を行く三島らの盾の会の行動も、「『ごっこ』のなかでさらに『ごっこ』に憂身をやつしているようなものである」。何故なら、同時代の日本では、自衛隊そのものまでが「自衛隊ごっこ」に過ぎないからだ。

こう指摘された当の三島がどのような反応を示したか。江藤がこれを書いた時(1970年1月)には三島はまだ生きていたが、その後まもなくして(同年11月)例の割腹事件を起こしている。

日本はなぜこうなってしまったのか。江藤はその理由を次のように解説する。「このように、なにをやっても『ごっこ』になってしまうのは、結局戦後の日本人の自己同一性が深刻に混乱しているからである。つまりどこまでが太郎ちゃんで、どこからが『鬼』であるのかがわからないような状態のなかでわれわれが暮らしているからである」と。

同時代の日本人が自己同一性を感じられないことの結果として、日本には公的な価値の自覚がない。「公的な価値の自覚とは、自分たちの、つまり共同体の運命の主人公として、滅びるのも栄えるのもすべてそれを自分の意志に由来するものとして引き受けるという覚悟である。それが生甲斐というものであり、この覚悟がないところに生甲斐は存在しない」。ところが同時代の日本人にはその覚悟が欠けているのであり、その理由は強固な自己同一性を持たないからだと江藤は言うのである。

公的な価値のないところには私権などもありえない。なぜなら私権というものは公的な価値との緊張関係のなかでしか存在しえないからだ。公的な価値のないところでは、私権ではなく、わたくしごとがあるに過ぎない。全共闘もわたくしごとなら、盾の会もわたくしごとなのである。

ところで、日本人はどうして自己同一性の感情を失ってしまったのか。その答えがいかにも江藤らしい。江藤によれば、それは日本人が自国の防衛を自分で担わずにアメリカにゆだねているからだということになる。江藤にとっては国の防衛の問題は個人の存立の問題とストレートにつながっているようなので、自国の防衛を他国にゆだねているということは、自分の存立を他人の手にゆだねているのと違いはない。そういう状態こそを、自己同一性の不在というわけである。

ここから江藤の反米ナショナリズムが展開されるわけである。だが江藤の反米ナショナリズムはそう単純ではない。彼は闇雲に米国からの自立を叫んでいるわけではなく、安全保障という面では、米国に依存せざるをえない現実もわきまえている。そのへんは、彼なりに現実主義的なスタンスをとっているわけだ。そういうわけだから、日本人は、自己同一性を回復して真に自立した人間になるためには、日本のアメリカからの開放をめざさねばならぬ一方、安全保障という点では引き続きアメリカの守護を仰がねばならない。一気にアメリカから自立するわけにはいかないのである。

そのジレンマは時間が解決してくれるのではないか。どうも江藤はそう考えているようである。時間がたてば日本をめぐる安全保障環境も変わるだろうし、アメリカから自立しながらなおも国としての安全保障に齟齬をきたさない。そういう選択肢が可能になるような時代がくるかもしれない。それを待つことには相応の理由がある。

江藤はそうした事態が案外早く訪れるだろうと楽観していたように、この文章からは伝わって来る。その事態とは、日米が互いに譲歩しあうことで、軍事面でも経済面でも対等なパートナーシップを確立できるような状態だ。そうなってこそはじめて、「戦後」は本当に終わるであろうし、「それとともにあの現実から一目盛ずらされているようなうわの空の時代も終わり、『ごっこ』の世界もほとんど消滅するであろう」

実際はしかし、そうはならなかった。日本はいまだにアメリカに従属しているばかりか、その従属度をますます深めている。なにしろ総理大臣みずからが、「アメリカの若者に日本を守ってもらう」と公言してはばからないのだ。江藤がそれを聞いたらどんなに驚愕するか。おそらく、日本人は自己同一性を失ったあまりに、頭が変になってしまったと言って嘆くに違いない。

江藤の推測はもう一つの分野でも実現しなかった。江藤はアメリカの未来学者を引用しながら、21世紀には日本は世界のナンバーワンになるだろうと楽観的な見通しを語っていたが、実際には日本は国際社会における存在感を低めている。アメリカのある雑誌の予想では、近未来の日本は世界の三流国になるだろうとの見方もある。まあ、それを以て江藤を批判するのは行き過ぎだろう。なにしろ江藤がこの小論を書いたのは1970年のことだ。その当時には、ソ連が崩壊するだろうなどとは誰もが思ってみなかった。それほど世界の未来の予測はむつかしいのだ。



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