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相対的剰余価値:資本論を読む


剰余価値は、剰余労働からもたらされる。したがって、剰余価値を増大させるためには、剰余労働の絶対的な長さを拡大すればいいわけだ。それはとりあえずは、労働日の延長というかたちをとる。労働日は、マルクスによれば、必要労働時間と剰余労働時間からなっているが、必要労働時間を所与とすれば、労働日の延長は剰余労働時間の延長につながる。これによってもたらされる剰余価値をマルクスは絶対的剰余価値と呼んでいる。

これに対して、相対的剰余価値というものがあると、マルクスは指摘する。これは、労働日を所与として、労働日内の必要労働時間と剰余労働時間の比率を変化させ、それによって剰余労働の割合を拡大し、それを通じて剰余価値を増大させることで得られる。これが実現できるためには、必要労働時間の短縮がなければならない。必要労働時間が短縮されるということは、労働力の価値が減少するということを意味する。どのようにして、そのようなことが起きるのか? 無理やり賃金を切り下げるわけにはいかない。

必要労働時間の短縮をもたらすものは、労働生産性だとマルクスはいう。労働生産性が上がれば、生産物の価値は総体として増大し、その増大部分は剰余価値となるので、剰余価値に対応する剰余労働部分が増大し、それに反比例して必要労働時間が短縮されるわけである。

この労働生産性には二種類あるとマルクスはいう。一つは、個別資本家によって孤立した形で実現される労働生産性、もう一つは社会全体レベルの労働生産性である。個別資本家のレベルでの労働生産性の上昇は、その資本家の生産物の価値を増大させ、それによって剰余価値の増大をもたらすであろう。また、社会全体レベルの労働生産性の向上は、労働者の生活に必要な物資の価格を低下させ、それによって賃金の下落、すなわち必要労働の減少をもたらすであろう。

個別資本家による労働生産性の上昇は、とりあえずは過酷な競争を生き残るという目的からなされるわけで、社会全体のことなど視野にはないのだが、そうした資本家の動機がからみあって、結果として社会全体の労働生産性の上昇につながっていく。ここにも見えざる神の手が働いているというわけである。

マルクスは言う、「ある一人の資本家が労働の生産力を高くすることによってたとえばシャツを安くするとしても、けっして、彼の念頭には、労働力の価値を下げてそれだけ必要労働時間を減らすという目的が必然的にあるわけではないが、しかし、彼が結局はこの結果に寄与するかぎりでは、彼は一般的な剰余価値率を高くすることに寄与するのである・・・商品を安くするために、そして商品を安くすることによって労働者そのものを安くするために、労働の生産性を高くしようとするのは、資本の内的な衝動であり、不断の傾向なのである」

以上を踏まえてマルクスは、労働生産性の本質的な意義について次のように言う、「労働の生産力の発展は、資本主義的生産のなかでは、労働日のうちの労働者が自分自身のために労働しなければならない部分を短縮して、まさにそうすることによって、労働者が資本家のためにただで労働することのできる残りの部分を延長することを目的としているのである」

資本主義的生産の歴史において、労働生産性が全社会的な規模で上昇したのは、マニュファクチャーの普及によってであった。マニュファクチャーとは、手工業の発展した形態であって、分業と協業によって組織化された手工業というべきものである。これが導入されたことで、労働生産性は飛躍的に高まった。その理由をマルクスは、協業が人間の心理に及ぼす刺激に帰している。マルクスは言う、「多くの力が一つの総合力に融合することから生ずる新たな潜勢力は別としても、たいていの生産的労働では、単なる社会的接触や競争心や活力の独得な刺激を生み出して、それらが各人の個別的作業能力を高めるので、12人がいっしょになって144時間の同時的一労働日に供給する総生産物は、めいめいが12時間ずつ労働する12人の個別労働者または引き続き12日間労働する一人の労働者が供給する総生産物よりも、ずっと大きいのである」

こう言うことでマルクスは、人間というものは本来的に社会的な存在であり、孤立して行動するよりも集団で行動するほうがずっと大きな成果をあげると主張しているわけである。その背景には、人間についてのマルクス独特の捉え方が働いていると指摘できる。マルクスは人間の類的存在としてあり方を、若い頃から重視していたのであるが、それはヘーゲルを踏まえた、多分に理念的な色彩を帯びたものであった。

労働生産性の問題は、資本主義の擁護者である経営学においても、早くから取り上げられた。アメリカで盛んになったこの経営学は、まずテイラーシステムとかフォードシステムというものから出発したが、それらはいずれも、人間を肉でできた機械部品のようなものとして捉え、孤立した人間をいかに有効に働かせるかに注意を集中した。そのうち、人間は単なる機械部品にはとどまらず、心を持った生き物だという当たり前のことにも着目するようになったが、それでも人間は相変わらず孤立した存在として前提され、社会的な存在とはみなされなかった。そこがマルクスとは決定的に異なるところだ。マルクスは労働者を社会的な存在としての人間ととらえる、資本主義の擁護者としての経営学は、労働者を単なる生産手段としか見ない。労働者は、資本家に剰余価値を生みだす手段にすぎないのだ。

労働生産性の問題は資本主義経済にとってつねに最大の関心事であったが、近年はその問題意識に重大な変化が生じてきた。先進資本主義国を中心に人口の減少傾向が表面化し、労働力不足が深刻化するなかで、経済を発展させるためには、一層労働生産性の上昇が求められるようになってきたのである。いわゆるグローバリゼーションを通じて、労働力を海外に求めることが広く行われるようにはなったが、やはり労働力の減少は深刻な問題となりつつある。今後グローバリゼーションの動きが頭打ちに近づけば、労働力の組織的配分と有効活用の問題が地球規模で深刻化するであろう。すくなくとも労働力の浪費は許されなくなるであろう。

なお、労働力人口の減少という事態の背景には、末期資本主義における労働力価値の全般的下落という傾向が働いている。これについては、別稿であらためて論じてみたい。



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