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剰余価値の流通:資本論を読む


資本論第二部第17章「剰余価値の流通」は、商品形態で存在する追加剰余価値を実現するための追加貨幣はどこからくるのか、という問題の解明にあてられる。資本主義的生産の本質は剰余価値の生産であるから、その発展にともなって経済の規模も拡大し、その拡大した部分が新たな貨幣需要を呼ぶ。なぜなら剰余価値は貨幣を通じて実現されるほかはなく、その貨幣が社会的に不足していては、正常な形での剰余価値の実現ができないからである。

マルクスの基本的な前提は、貨幣は貴金属であること、その価値は貴金属に体現された労働時間であるということである。したがって貨幣は、無限に増やすわけにはいかないこと、またその価値は固定していることが前提とされる。この前提をもとに、拡大する経済の規模が要求する貨幣の量は、どのようにして確保されるか、というのが、ここでのマルクスの問題意識なわけである。

貴金属の一部は奢侈品として流通し、一部は蓄蔵貨幣のかたちで保存される。経済の規模が縮小する部面では、奢侈品とか蓄蔵貨幣という形で貨幣が流通から引き上げられる一方、拡大部面では逆に、奢侈品や蓄蔵貨幣が流通に投げ込まれる。経済の変動がゆるやかな段階では、こうした調整はある程度機能する。しかし経済規模の拡大が急速で、しかもその規模が貴金属全体の存在量では間に合わなくなる場合もある。そのような場合には、貴金属全体の存在量を増大させる必要がある。でないと、貨幣需要が満たされず、商品の取引に支障が生じる。

このようにマルクスは、貨幣はあくまでも実体経済を媒介するものであって、その必要量は経済の規模に比例すると考えていた。ゴルギアスの紐のように、貨幣の価値を増減させることで、貨幣の需給に応えるわけにはいかないのである。では不足する貨幣はどのように追加されるのか。マルクスは、貴金属を新たに追加生産しなければならないと考える。貴金属には自然に摩滅する傾向があるから、平常時にも一定の量の貴金属が追加される必要があり、したがってその部分の生産は行われている。しかし経済規模の急速な拡大による貨幣需要の増大に対しては、貨幣としての貴金属の絶対量を増大させるほかはないわけである。ただし、マルクスの時代にはすでに高度な発展段階に達していた信用制度を活用するというやり方もある。信用制度は、支払い手段としての貴金属貨幣にかわる役割を果たすことができる。したがって貴金属では対応できない貨幣需要に対して、信用制度がその穴を埋めることはできるわけである。

貨幣についてのマルクスの理論は、別にかれ独特のものではなく、主流派の経済学も、基本的には共有していた考えである。ひと言でいうと、貨幣は流通を媒介するものであって、その量は実体経済の規模に比例する。実体経済の規模が貨幣の量を決めるのであって、貨幣の量によって実体経済が変動するのではない。たとえば物価の上昇は、商品への需要の拡大がもたらすのであって、その逆ではない。商品への需要が拡大するから物価が上がりインフレが起るのであって、その結果貨幣の量も増大する。貨幣の量が増大するから物価が上昇するという考えは、マルクスによれば逆立ちした考えなのである。

こうした逆立ちした考えは、いまでは珍しくはなくなっている。たとえば日本を含めた先進各国の中央銀行は、デフレを解消するためにはインフレを起こす必要があり、そのためには貨幣を増大させる必要があると主張している。貨幣の量を増大させればインフレが起り、その結果デフレが解消されると考えるわけだが、これはマルクスによれば逆立ちした考えなのである。インフレは、実体経済が過熱したことの結果なのであり、貨幣を増やせば実体経済も活性化すると考えるのは、実に短絡した考え方なのである。したがって、実体経済がなんらかの原因で冷え込んでいるときには、いくら貨幣の供給を増やしても、それは基本的には死蔵されるだけであり、流通を活性化することにはつながらないのである。

こうした考え、つまり貨幣の万能性のようなことを強調している連中を貨幣数量説の主張者という。貨幣数量説は、貨幣を実体経済の従属変数と考えるのではなく、独立変数と考える。独立変数であるから、他の要素には影響されない、それ独自の働きがある。貨幣を増やせばインフレ傾向を推進し、逆に減らせばデフレ気味に出来る。これは貨幣自体に先天的に備わったすぐれた機能であると考えるわけである。

こうした考えが有力になってきたことには、ニクソンが金兌換停止を実行して、貨幣が貴金属による価値の裏付けをかならずしも必要としなくなった事情が働いている。いわゆるニクソンショックは1970年台初頭のことで、それから50年しか経っていないが、この短い期間に貨幣数量説が破竹の勢いを持つに至ったわけである。それについては、ミルトン・フリードマンのような、学説の整合性よりも投機的な思惑を重視する「学者」が大手を振るったという事情も働いている。フリードマンによれば、経済学者の存在意義は、経済事象の分析にあるのではなく、金もうけの機会を示してやることなのである。そうしたご託宣を忠実に実行している学者が日本にもいることは周知のことである。経済理論をまともらしく振りかざして、規制緩和なる名目のもとに、誰でも金儲けができるシステムを作ったうえで、自分がその最も有利な受益者になるといったことがまかり通っているのである。



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