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テアイテトス読解その七


ソクラテスは、思いなしには真なるものと偽なるものとがあるといって、どれが真でどれが偽なのかを区別するための基準を探そうとする。その基準とは、記憶だ。われわれは学んだことを記憶するが、その記憶はいつでも思い出すことができる。たとえば、何かを見たことがきっかけで、それが何であるかを確認するために、記憶を参照したりする。その場合、その記憶と今見たものが一致すればよいのだが、一致しない場合がある。つまり今見たものを、記憶の中のそれとは異なったものと取り違えてしまうわけで、こういう場合にはその思いなしは偽だというべきである。それとは反対に、今見たものと記憶の中のものが一致すれば、それは真なる思いなしである。

その記憶のことをソクラテスは、蠟への印形に譬えている。感覚や思い付きを蠟にあてがってその形跡をとどめるようなものだというわけである。「一たび印刻されたものは、それの形象が蠟上に存する限り、これをわれわれは記憶し、また知識するのであるが、拭いさられたものや印刻されなかったものは、これを忘却したり、知識しなかったりするのである」

さて、何が真なる思いなしで、何が虚偽の思いなしなのか。ソクラテスはその例を微細にわたって検討する。まず、虚偽であることが不可能なケース。これには十四通りのケースがある。それをそのまま引用する。
 一、 ひとが何かを知っていて、それの記憶を心の中に保存してはいるが、しかしそのものを感覚していない場合において、それを他のやはり彼が知っていて、その形象をも(心に)保存しているが、しかし感覚はしていないところの何かであると思うことは不可能である。
 二、 しかしてまた更に、彼が知っているところのものを、彼が知ってもいなければ、それの印象を保存してもいないところのものであると思うことも不可能である。
 三、 また、知らないものを、同じくまた知らない他のものであると思うことも不可能である。
 四、 また、知らないものを、知っている他のものだと思うことも不可能である。
 五、 しかしてまた、それが感覚しているところのものを、それの感覚している何か他のものであると思うことも不可能である。
 六、 また、感覚しているものを、感覚していないものの中の何かであると思うことも不可能である。
 七、 また、感覚していないものを、感覚していないものの中の他の何かであると思うことも不可能である。
 八、 また、感覚していないものを、感覚しているものの中の何かであると思うことも不可能である。
 九、 しかしてなおまた更に、ひとが何かを知ってもいるし、また感覚もしていて、そしてその感覚に符号するようなそれの印影を(心に)保存している場合、それらのものの中の何かを、別にまた彼が知ってもいるし感覚もしていて、そして更にまたその感覚に符号するようなその印影をも保持しているものの中の他の何かであると思うことは、上述の場合にもまして、もしもそういうことができるならば、更にもっと不可能である。
 十、 また、知っているとともに、記憶も間違いなく保存していて、それを感覚している場合、これを知っている他のものであると思うことは不可能である。
 十一、また、知っているものを今と同じ条件で感覚している場合、これを彼が感覚しているところの他のものであると思うことも不可能である。
 十二、また他方、知りもしなければ、感覚もしていないものを、他の知りもしなければ感覚もしていないものであると思うことは不可能である。
 十三 また、知りもしなければ、感覚もしていないものを、知らない他のものであると思うことも不可能である。
 十四 また、知りもしなければ、感覚もしていないものを、感覚していない他のものであると思うことも不可能である。

これだけ煩瑣にわたって虚偽の思いなしが不可能であるケースを羅列することに、どれだけの意義があるのか、読者にはなかなか納得できないところがある。というのも、ソクラテスは虚偽であることが可能なケースについて、あっさりと提示するのである。その提示の仕方には、上に羅列したケースとの深い関連があるとは言えないのである。

虚偽であることが可能なケースは三つあるとソクラテスは言う。それは、知っているものの場合において、
 十五、彼が知ってもいるし、感覚もしているもののうち何か他のものを、その知っているものと思う場合だとか
 十六、あるいは、彼が知らないけれども、感覚はしているものの中の何か他のものを、それであると思うような場合とか、
 十七、あるいは、知ってもいるし感覚もしているものの中の何かを、同じくまた知ってもいるし知覚もしている中の他のものであると思う場合だとかいうのが、それなのさ、とソクラテスは言うのである。

ソクラテスはこれらのケースの具体的な例もあげている。たとえば、ソクラテスがテオドロスとテアイテトスとを取り違えるケースだ。このケースでは、ソクラテスは二人ともよく知っていて、また実際目の前に見てもいるのだが、それにもかかわらず見違えることはある。それには色々な事情がからむのだが、いずれにしてもよく知っているあるひとを目の前にみていながら、それをよく知っている他のひとと見違えることはよくあることなのだ。

以上は、思いなしには真のものと虚偽のものとがあるということに関する議論だが、その議論は本来の問題とどのようなかかわりがあるのか。本来の問題とは、知識とは思いなしの真なるものであるというテアイテトスの主張が正しいかどうかということだった。それに対してソクラテスは、真なる思いなしとは何かということを明らかにするために、上述の議論を展開したわけだった。そういう流れからすれば、真なる思いなしとは何かをきちんと定義したうえで、それが知識であるという主張と照らし合わせるのが筋というものだが、ソクラテスは、上述の議論を全く無視するかのように、いきなり別の視点からテアイテトスの主張を無化してしまうのだ。

ソクラテスは、知識とは何かについて議論している自分たちは、知識が何かを知らないからこそそれを議論しているはずだが、実際には、あたかも知識というものが既知であるかのように議論していたと(自嘲気味に)言ったうえで、テアイテトスに「知識とは思いなしの真なるものである」という主張を改めてさせる。そのうえでソクラテスは、思いなしはどのように作られるかという方へ、議論を転化させるのだ。ソクラテスが思うには、ひとに思いなしをさせる技術というものがある。それは弁論術である。弁論術は法廷で威力を発揮するもので、弁論によってひとを説得し、そのひとの思いなしを自由にあやつることを目的としている。ところがその技術には、知識というものはあまり、というかほとんど必要がない。必要なのは、知識よりはったりのような、ひとをその気にさせるようなものである。そうした場合には、かれらは知識の助けを借りずに、説得にもとづいて判断したことになる。

これは何を意味するのだろうか、とソクラテスは問う。説得は裁判の法廷で見られるものだが、そこでは知識ではなく説得の技術がものを言う。裁判官は、知識ではなく説得の良しあしに基づいて判断するのである。その結果、裁判官なりの思いなしとしての判決が下されるわけである。しかしこれはおかしいことだ。「もしいやしくも裁判事項に関して真実の思いなしと知識が同じであったとするならば、いやしくも裁判官が一流の裁判官なら、知識を持たずに正しい思いなしだけをするということは決してなかったはずなのである。してみると今は、この両者は各々何か別のものらしいということになる」

つまりソクラテスは、裁判においては、知識ではなく説得が裁判官の思いなしをさせているのであるから、その思いなしと知識とは別のものだと言っているわけである。そういうことで、知識とは思いなしの真なるものであるというテアイテトスの主張を論駁したつもりなのである。これは大分乱暴な議論で、裁判がいんちきだという前提に立っているわけだが、それについては、当時のアテネの裁判に対するソクラテスの鬱屈した感情が働いているのだと思う。




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