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理解されなかった言葉:存在の耐えられない軽さ


ミラン・クンデラは饒舌な作家だといった。彼の代表作「存在の耐えられない軽さ」を読むと、語り手の饒舌な語り方がひしひしと伝わってくる。普通の場合語り手は、自分自身の存在を主張したりはしない。語り手はあくまでも語り手であり、彼が語るのは登場人物についてなのである。あるいはそうあるべきなのである。ところがクンデラの小説の語り手、彼はそれを「著者」といっているが、その言葉で自分自身をさしているのであり、その著者は彼の場合、小説の一登場人物であるかの如く、饒舌に自己を主張する。彼は単なる小説の語り手ではなく、語り手を騙った登場人物の一人なのだ。

クンデラはなぜ、こんなわかりにくい、というかまわりくどいやり方をとっているのか。おそらく彼の考えているディストピアの本質を描写するには、カフカ的なリアリズムでは足らず、もっとストレートな対象分析が必要と考えたからであろう。いわば小説にメタ視点をもたせようというわけであろう。それを実現するもっとも手っ取り早い手法が、小説の語り手をして語らせることだ。それも登場人物を装うという形で。

そんなわけでクンデラの小説には、語り手としての著者自身による言い分が随所で紛れ込んで来る。クンデラはそれらの言い分を通じて、自分がこの小説に持たせたかったこと、つまり地上に実現されたディストピアの本質についての赤裸々な叙述を、説得力を以て遂行したかったのだと思う。

クンデラは、そうしたメタ叙述というべきものを、小説の本文の中に紛れ込ませるだけでなく、それだけを取り出して別建ての文章にし、特別に語ることもある。小説第三部「理解されなかった言葉」における、「理解されなかった言葉の小辞典」に収められた言葉の数々がそれである。この章は、「ジュネーヴでは夫婦はフランス風に一つのベッドで寝る」という言及で始まるのだが、それに続いて「理解されなかった言葉の小辞典」と題した部分が、三部にわけて披露される。

まず最初の部は、女についての言及から始まる。女は、クンデラによれば、価値を意味する。それはおそらく男にとっての価値だと思う。ついで誠実さと裏切り、音楽、光と闇についてのクンデラ自身の見解が述べられ、第二の部では、パレード、ニューヨークの美しさ、サビナの祖国であるチェコ、そして墓地について言及される。この中でもっとも注目を引くのは、ニューヨークの美しさについての言及であろう。クンデラはサビナの口を借りる形で、ニューヨークの美しさは非計画的な美しさ、間違いとしての美しさであるといい、ヨーロッパの美しさではなく、性質の違うよその世界だ、と言っている。これが肯定的な主張なのか、否定的な主張なのか、については断言されてはいない。墓地についていえば、夕暮れに火のともされた蝋燭でいっぱいになる様子が、死者が子供の舞踏会を催しているように見えると言い、墓地にはいつも平和があったと言う。

第三の部は、アムステルダムの古い教会、力、真実に生きることについて語られ、肉体的な愛は暴力なしには考えられないといい、真実に生きるとは、自分の恋を世間の目から隠すことだという。なぜならプライバシーを失う者はすべてを失うからだ。恋を世間の目から隠すことは、もっとも切実なプライバシーなのだ。

クンデラの理解できなかった言葉をめぐる饒舌は、無論他の場所、つまり本文の中でも適宜差し入れられる。たとえば、沢山の女を追いかける男についての饒舌だ。女を追いかける男のタイプとしては、ドン・フアン型とファウスト型を上げるのが古来の常道だが、クンデラがここで上げるタイプはそれとは違ったものだ。ドン・フアン型とファウスト型の対比は、多くの女を追いかける男と一人の女を追求するタイプの対比であるが、ここでクンデラがあげているのは、大勢の女を追いかける男の二つのカテゴリーである。第一のカテゴリーは、抒情的なタイプで、このタイプの男は、どの女にも自分に固有の、女についての常に同じ夢を探し求める人であり、第二のカテゴリーの男は、叙事的なタイプの男で、客観的な女の世界の無限の多様性を得たいと願う人である。

第一のタイプの男は、さまざまな女に自分の理想を見つけ出そうと努めるが、決して満足することがない。何故なら、理想というものは決して見つけることができないものだからだ。第二のタイプの男は、さまざまなタイプの女を前にして、それぞれ興味を掻き立てられるので、すべてが興味の対象であり、失望を味わうことはない。だが失望することがないというのは、クンデラによれば、何やら不愉快にするものを内蔵している。というのは、そこには失望による救いがないからだ。

このほかにもクンデラの饒舌は続く。たとえばコケトリーとは保証されていないセックスへの約束だとか、愛を性というばかばかしいものから守る唯一の方法は、ツバメの姿をみて興奮することだとか、近さはめまいをひきおこさせるのかといった疑問などがそれだ。また、人間が神の姿に似せて作られたとすれば、神は腸をもっていることになり、神が腸をもっていないとすれば人間は神に似ていないというような反省もなされる。人間を神の崇高さと腸のひり出す糞とのあいだにとらえるクンデラの感性は、実に独特のものである。



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