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スピノザの「エチカ」その四:感情について


「エチカ」の感情についての章を、スピノザは自然への言及から始める。感情は自然に基礎をもつものと考えているからだ。というより、自然の活動性というか、自然の様態の如きものと考えているようである。人間は自然の一部なのであって、人間の中の精神もその例外ではない。精神は自然と異なったものではない。精神も又自然の一部なのである。だから精神が、それ自体として自立的に活動することはない。つねに身体と一体となって活動する。人間というものは、精神と身体が渾然一体となったものなのだ。スピノザは、精神が身体を支配することはなく、また身体が精神を支配することもないと言っているが、その意味は、精神と身体は相互に切り離しえないということなのである。

スピノザは感情を、身体の変容についての観念だと言う。身体が外部の事物から働きかけを受け、その結果変容を蒙る。その変容についての観念が感情だというのである。だから感情とは、基本的には受動的なものである。それに対して意思は能動的なものである。能動と受動との相違は、精神から積極的に働きかけるか、あるいは外部から働きかけられるかの違いだが、能動的に働きかける場合には、精神は対象についての十全な観念を持っている。それに対して受動的に働きかけられる場合には、対象についての不十全な観念しかもっていないと言う。これは、受動的に働きを受ける場合というのは、感覚を通じてということを意味しており、能動的に働きかける場合には、高度な思惟を通じてということを意味しているのである。いずれにせよ、感情とは人間と対象との間での、人間にとって受動的な形で現われる現象というふうに、スピノザは考えているわけだ。

スピノザは感情を、大きく三つに分類する。よろこび、かなしみ、欲望である。それ以外の諸々の感情は、すべてこの三つの感情から派生したものである。愛はよろこびから、憎しみはかなしみから、情欲は性交への欲望といった具合に。

よろこびとは、精神をより大きな完全性へと移行させる受動状態のことであり、それに反してかなしみとは、精神をより少ない完全性へと移行させる受動状態のことである。ちょっとわかりにくい言い方だが、要するに、精神を高揚させ活力を増すような心の状態がよろこびであり、その逆がかなしみということになる。よろこびとかなしみとは一対の概念であり、相互に正反対の方向性を持っているわけだ。それに受動状態という表現を使っているのは、感情が受動的に引き起こされる状態をあらわしていることから来ている。

一方欲望は、衝動の意識を持った衝動のことである、とスピノザは言う。これもわかりにくい言い方だが、要するに、人間が生きていくうえで、その生きようとする衝動のことにほかならない。衝動とは、人間の本質に根差したものだ。人間の本質は、スピノザによれば、自らを維持するように決定されており、それが生きることへの衝動となってあらわれる。欲望とは、そうした衝動と根本的には異ならない。

よろこびとかなしみは、人間にとってよいこととわることとにそれぞれ対応している、とスピノザは言う。そこから、道徳が感情に根差しているという主張が導き出される。普通の常識では、善と悪は道徳の根本となる概念だが、それらはいずれも客観的な存在様式だと想念されている。客観的に善なるもの、客観的に悪なるものがあり、それらが人間に良い結果、悪い結果を生む。善は人間にとってよいこと、悪は人間にとってわるいことなのだ、と思われている。しかしこれは逆立ちした考えだ、とスピノザは言うのである。善であるから人間にとってよいのではなく、その逆に、人間にとってよいものを、我々は善と言っているに過ぎない。悪についても同様である。人間にとってわるい結果をもたらすものを、我々は悪と呼んでいるのである。しかして、人間にとってよいものは、よろこびの感情をもたらすものだし、人間にとってわるいものは悲しみの感情をもたらす。だから、善悪とは人間の感情に根差すものであって、それ自体が客観的な性質を持っているわけではない。

こうしたスピノザの考え方は、道徳を相対化させるものだ。道徳は、カントにおいてさえ、絶対的な性質をもつものとされていた。カントは、道徳の要請を定言命令と称したが、定言命令とは、いついかなる場合においても、無条件で従わねばならない、つまり絶対的な性質をもった命令なのである。そうした命令は、人間社会のなかに客観的に存在している。人間はそうした命令を所与のものとして、それに無条件に従わねばならないと考えた。つまり道徳絶対主義の考えに立っていたわけである。カントはスピノザより後世の人であり、そのカントが道徳について絶対的な見方をしているのに対して、スピノザは道徳を相対的なものとして見ていたのである。それは人間の感受性、つまり感情に左右されるものなのだ。

スピノザは、道徳を相対化させただけではない。道徳の価値の切り下げをも行った。あるいは脱価値化したといってよい。善を人間にとってよいもののことだと言う場合には、善を相対化したとは言えても、脱価値化したとまでは言えない。人間にとってよいことは、その度合いに応じて価値があると言えるからだ。よいことすなわち価値あることという判断は不自然ではない。しかし、そのよいことを、単に人間をよろこばせるだけのものと言う場合には、それは価値とは別のことを言っていると受け取られる。価値を全く考慮しないでも、我々はよろこびを論じることができるからだ。

よろこびとかかなしみとかいった感情は、スピノザはそうは言っていないけれども、おそらく一部の動物にもあるのだと思う。よろこびもかなしみも、人間の存在のあり方に根差しており、存在し続ける、つまり生き続けるうえでの、生きる衝動のようなものに根差しているのであれば、そうした生きる衝動を持った動物がいるのは不自然ではない。ところが、動物に生きる衝動としてのよろこびやかなしみの感情があったとしても、我々は動物に道徳があるとは思わないだろう。というのも、我々は道徳という言葉によって、なにか特別の、客観的な命令を想定しているからだ。動物にはそのような、客観的・絶対的命令を想定することはできない。しかし、喜びや悲しみが単に生きるうえでの衝動だといえば、それを価値と結びつける理由はなくなる。そういうものとしてのよろこびとかかなしみなら、我々はそれらを人間と一部の動物とに共通するものと考えて無理はない。つまり、よろこびとかかなしみ、及びそれと結びついた善とか悪とかを、価値とは全く別のものだと考えればいいのである。スピノザはそのように考えることで、道徳を脱価値化したということができると思う。



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