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表音文字と表意文字:井筒俊彦を読む


ヨーロッパ哲学の伝統において、パロールがエクリチュールに優位してきたのは、エクリチュールが表音文字によって書かれてきたからではないか。そんな問題意識を井筒は、「意味の深みへ」所収の「書く」という小論の中で提起している。表音文字というのは、アルファベットのことだが、そのアルファベットは音を表記するための文字である。パロールを通じて語られた言葉の、その音を表音文字であらわすわけだから、それはパロールの(表音的な)コピーということになる。だから本物はパロールであって、エクリチュールは偽物ということになりかねない。じっさいプラトンは「パイドロス」の中で、(パロールとかエクリチュールという言葉は無論使わないが)書かれたことは話されたことのコピーだというような言い方をして、話されたことの優位を主張している。

デリダは、パロールとエクリチュールの関係を逆倒させて、パロールに対するエクリチュールの優位を主張し、パロールを程度の低いエクリチュールだといった。その根拠として、デリダは次のようなことを言う。パロールは音からなっているが、その音は発せられる先から消えてしまう。にもかかわらず我々は、発せられた言葉を有意味なものとして一体的に理解するのであって、無意味な音の連続としては理解しない。何故かというと、普通の考えでは、音が時間の中で持続するからだと思われそうなものだが、デリダはそうは考えずに、言葉に空間性があるからだと考える。空間性というのは、エクリチュールの属性である。何故ならエクリチュールは文字によって表記されるのであるし、その文字に空間性があるからだ。文字というものは、一定の空間を占有することを本質とするのである。

こんな具合にデリダは、エクリチュールこそがコトバの本来的なあり方だとする。それがパロールと逆転して、エクリチュールが非本来的な言葉だとみなされるようになったのは、表音文字であるアルファベットのせいだとデリダは言うのだ。表音文字というのは、「パロール(の能記的側面)を、そのまま書き写す道具にすぎない。大切なのは、写される音声であって、写す道具自体には価値がない。こう考えれば、当然、エクリチュールはパロールに従属し、奉仕するだけのものとなってしまう」というわけである。

このパロールの優位ということに対してデリダは、エジプトの象形文字や、中国の表意文字を引き合いに出して、もしもヨーロッパ言語が表意文字で書かれていたら、パロールのエクリチュールに対する優位という事態は成立せずに、かえってエクリチュールの優位が生じたのではないか、というような問題意識を投げかけている。

デリダは、エクリチュールの特質を、文字の空間性に求めるわけだから、そしてその空間性をパロールにも適用するわけだから、コトバの本質は空間性にあるということになる。こうした空間性は、表音文字についてはあまり明白にはならないが、表意文字だと一気に明白化する。表意文字のなかでも中国の漢字は、まさに(線の)空間的な配置から成り立っており、その配置の差異によって意味が成立してくる。無論漢字にも対応する音はあるが、たとえば日本人が、漢字の音がわからなくても意味は分かるように、漢字の空間的な配置そのものが意味を表出するようにできている。

すなわち、漢字にはずっしりとした重量感がある。その重量感は、「漢字それ自体が、独立した、有意味な図形、つまり、意味の視覚的形象指示であるというところから来る。漢字においては、音声よりも、それの図像的意味形象が、まず人の目を打つ」というのである。「このようなエクリチュールは、決してパロールの代用物ではありえない・・・文字が文字として、それ自体の重みをもつのだ」というわけである。

漢字のもつそのような重みが、漢字を「書」として芸術品にまで高める。西洋にもカリグラフィーというものはあるが、漢字に比べて、その芸術的な価値あるいは可能性は小さい。

デリダのこうした主張を梃子として、井筒もエクリチュール論の可能性について期待しているようである。特に日本人には、新しいエクリチュール論の可能性が開けていると思っているようだ。日本人は、中国から伝来した漢字をもとに、それに平仮名、片仮名を加え、世界一複雑な文字システムを生みだした。それは、表意文字としての漢字と、表音文字としての平仮名、片仮名が繰り広げる、実に複雑なシステムである。そんな文字システムを持っている民族は、かつての朝鮮人以外には、歴史上存在しなかったのではないか。その朝鮮民族はいまでは、表音文字たるハングル文字に一元化する方向を追求している。

このような、デリダ・井筒の文字についての言説は、表音文字は音の標記、表意文字は意味の表出という対立関係を単純化することで成り立っている。しかし、漢字をとってみても、事態はそう単純ではない。漢字は意味と音から成り立っているが、その二つの要素のうち、デリダ・井筒は意味の表出機能に一方的なアクセントをおいて考えている。それに比べると、漢字の持つ音の要素は軽視されがちである。しかし、漢字の成立史から見れば、もともとはコトバとしての音があって、その音を漢字で表現したということから、漢字の歴史は始まった。漢字が、偏と旁からなることは常識だが、そのうち旁の部分が、音を表示しているとともに、意味もあらわしている。漢字がもともと意味が音に付着したものだったことは、同じ旁を持つ漢字が、いずれも共通した意味をもっていることからわかる。

漢字が発生した国である中国では、いまでも漢字はそれ固有の音をもっており、それ以外の音で発声されることはない。ところが日本では、漢字と音との組み合わせはかなり自在である。どんな漢字にも、音訓二種類の発音方法がある。音は、中国伝来の音を日本風に改造したもの、訓は、その漢字に意味上対応する日本語のコトバをあてがったものだ。これがくせもので、似たような日本語はいくらでもあるから、漢字の訓も一定しない。しかも時代が進むにしたがって、どんどん拡大する傾向がある。とくに子供の名前には、この漢字になぜこんな言葉が結びつくのか首をひねるケースが多い。たとえば「緑夢」と書いて「グリム」と読ませるものがあったが、これは「緑」はグリーンという意味であることから、無理やり読ませたものだ(グリーン<緑>なム<夢>=グリム)。

日本語には、漢字と並んで表音文字たる平仮名、片仮名も存在するので、表記の上では実に多彩である。日本語では、可能性としては、表音文字たとえば平仮名だけで表記することもできる。その場合は、ハングルと似たような状況になるだろう。しかし日本人はあえてそうしない。それば、漢字に愛着があるからというよりは、日本人の文字についての独特な態度に根差しているのだと思う。それについて論じるには、多くの紙幅を要するので、他日に期したいと思う。




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