知の快楽 哲学の森に遊ぶ
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嘔吐:サルトルの哲学小説


長編小説「嘔吐」は、サルトルの初期の活動を代表するものと言ってよい。彼は、「想像力」などの哲学論文や何遍かの短編小説を通じて、彼なりの存在論を展開していたが、この「嘔吐」はそうした試みを集大成しようとしたものだ。「しようとした」というのは、この小説が必ずしも、彼の意図を十全に実現したものとまではいえないからだ。どこか不消化な部分を感じさせる。そのことで、思想の開陳としては中途半端だし、小説としてはぎこちなさを感じさせる。

この小説がハイデガーの「存在と時間」やキルケゴールの思想に影響されていることは容易に見て取れる。キルケゴールの影響という点では、この小説の形式自体が「誘惑者の日記」を思い起こさせる。「誘惑者の日記」は、ある青年の残した日記を第三者が公開するという体裁をとっていたが、それと全く同じ体裁をこの小説もとっている。これもまた、第三者である刊行者が、アントワーヌ・ロカンタンなる人物の書類のなかから発見したということにされているのである。

ハイデガーの「存在と時間」の影響という点では、この小説のテーマが「存在」だということに集約される。この小説は、存在とは何か、というテーマをめぐる堂々巡りの議論からなっているのである(そこに時間の問題もからんでくる)。こういう議論は、哲学的な論文の形をとった方が馴染むのだろうと思われるのだが、サルトルはそれを小説の形を借りて行ったわけである。

日記の執筆者ロカンタンは、ブーヴィルという港町に住んでいることになっている。これは架空の都市だが、ル・アーヴルがモデルらしい。ル・アーヴルは、サルトルがアグレガション取得後始めて赴任したリセのある都市である。ここでロカンタンは、ド・ロルボン氏の伝記を執筆しているのだが、途中でそれを放棄してしまう。ある事情で、それどころではなくなってしまったのだ。その事情とは、ある日突然嘔吐に見舞われ、その後頻繫に嘔吐感に悩むようになって、生きていること自体が困難な状態に陥ってしまったというものである。

その嘔吐はさまに突然ロカンタンを襲ったのだった。「その時嘔吐が私をとらえた。私は腰掛の上に倒れた。自分がもうどこにいるのかさえわからなかった。私は、周囲をいろんな色彩がゆるやかに渦を巻いて流れてるのを眺めていた。嘔きたかった。そうして、それ以来<嘔吐>は私から離れず、私をしっかり摑まえている」(白井浩司訳)

この嘔吐がどこからどんな理由でくるのか、私は思い悩んだ。その結果、私を囲むさまざまな事物の存在が私に嘔吐を催させるのだと思うようになった。私の嘔吐は私の周りが存在で満たされていることのシグナルだ、そう私は思うのである。しかし私の周りのものの存在がなぜ私に嘔吐を催させるのか、そこまではわからない。それがわかるのは、私が私自身の存在に思い当たったときだった、つまり私のまわりの事物の存在が私に嘔吐を催させるだけでなく、わたし自身の存在が私に嘔吐を催させる、というか私自身の存在が私の嘔吐の究極的な理由だということに、わたしは思い至るのである。

この辺は、世界内存在としての現存在が、つねに不安にさいなまれているとしたハイデガーの存在論を思い起こさせる。ハイデガーの不安に相当するものを、サルトルは嘔吐としてあらわしたわけである。ハイデガーはその不安を手がかりにして、現存在の存在様態について次々と展開してゆくわけだが、サルトルの議論は(すくなくともこの小説では)そう遠くへは及ばない。

私に嘔吐を催させるこの存在とは、一体何者なのか。私は色々と思い悩む。その結果たどり着いた結論は、存在にはいかなる意味もない、つまり存在は無意味なものであり、ということは何らの必然性をも伴わぬ全くの偶然性にまとい付かれている、という考えであった。意味とか必然性とかいったものは、存在そのものではなく、存在と存在との相互関係のなかから生まれてくる。存在そのもの自身には意味も必然性もない。存在は無意味でかつ偶然のものなのだ。

存在に意味を付与するのは、存在と存在との相互関係だといったが、それは時間の中で生起する。絶対的な意味での存在は時間を持たず、いまこの瞬間に偶然に存在するに過ぎないが、それが時間のなかで他の存在とかかわりあうようになると、そこから意味を持つようになるのだ。たとえば人が自分自身の意味について語るとき、彼はそれを発端から語りたがるものだが、実は結末から始めているのである。結末から始めることで、語られているものは全体性を持った事柄ということになる。つまり時間性を帯びるわけだ。ハイデガーの場合には、この時間性が人間に意味を付与するとされた。人はその結末である死によって一つの全体性として完結する。その完結した時点から振り返ることで、人の生涯は一定の意味を帯びるようになる。人の生はだから、死から眺めることで、全体としての生として完結するわけである。

このようにハイデガーの場合には、時間性に積極的な意義が付与されているが、サルトルは時間性をそう重視しない。ハイデガーのやり方は、時間を尻尾からとらえることと同じだといって、あまり評価しないのである。サルトルは、この瞬間における選択(投企)のほうが重要だという視点に立つのである。

ともあれ、私の存在を含めて存在というものが全くの偶然であれば、私という存在者には実質が欠けているように見えてくる。「私は単なる見せ掛けではないのか」という疑念が私をとらえる。私は私として存在し続けるために食べたり飲んだりしている、「しかし、存在することにはいかなる理由もない、まったくなにもない、ということなんです」、こう私は知り合いの独学者に告白せざるをえなくなる。「そうだ、私は世界が存在することを知っている。それだけのことだ。しかしそれはどうでもいいことだ。すべてが私にとってどうでもいいというのは奇妙である。それは私には恐ろしい・・・肝要なことは、それは偶然性ということである。というのは定義を下せば、存在とは必然ではないという意味である。存在するとは、ただ単に<そこにある>ということである」(同上)

ロカンタンは、昔の恋人アニーと数年ぶりにあう。彼はアニーとよりを戻し、セックスもしたいと考えているが、彼女のほうは抽象的な議論にロカンタンを引きずり込む。数年ぶりにあった男女が抽象的な議論をするというのは尋常ではないが、議論の中身は尋常ならざるどころか異常なものであった。その議論を通じて、ロカンタンは叩きのめされた気持になる。彼が存在は単なる偶然だと思っていたところに、アニーは存在の「特権的状態」について語るのだ。特権的状態とは、それ以外にはありえなかったような、つまり必然的な結果という意味を含意している。これはロカンタンの考え方とは正反対のものだ。だから互いに相容れない。相容れないもの同士は反発しあい、別れてゆく運命にある。そんなわけでロカンタンは、アニーと永遠の別離をしなければならなかった。アニーはいう、「それじゃあなたは、ちっともあたしと同じことを考えていなくてよ。少しも努力しないで、ただ、事物があなたのまわりに、花束のように置かれていないということで愚痴を言っているのね。しかし絶対にあたしはあなたのように多くのことを望んだわけじゃないわ。行動したかったのよ」(同上)

おそらくアニーのいう行動には必然性が伴っているのだろう。それに対してロカンタンは、なにもかも偶然なまわりの事物に腹をたてているだけだ、というわけである。もっともこう言ったからと言って、サルトルはアニーの主張に軍配をあげているわけではない。単に堂々巡りのどうでもよいような議論をさせているだけである。





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