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タコツボ社会としての日本:丸山真男「日本の思想」


丸山真男が「日本の思想」の中で展開した議論の中で、「実感信仰」とともに最も大きなインパクトを与えたものは「ササラ型とタコツボ型」の対比を巡るものであろう。(日本の思想第三章「思想のあり方について」)

丸山は西洋文化がササラ型であるのに対して、日本文化はあらゆる点でタコツボ型だといったうえで、そのタコツボ型の制約のようなことを論じた。つまり一種の日本文化論になっていたわけで、そこのところが大いに話題になったわけだ。

ササラ型というのは、ササラのように同じ根っこから様々な枝葉が分かれるタイプの文化である。そうした文化では、根っこが共通だから枝葉同志の対話が成り立つ。ところがタコツボ型の文化では、学問芸術から社会組織のあり方まであらゆるものがタコツボのように孤立して存在し、相互の関わり合いがない。したがって対話が成立しない。日本では、文学者と社会科学者が共通の言葉を話すこともない、そう丸山は言って、文学と社会科学のみならず、あらゆる学問芸術分野が共通する言葉を使う西洋との著しい対比をあぶりだしている。(ヘーゲルでさえ使っている用語はそうした普通の言葉なのだ)

丸山は、このように社会が様々な部分に分断されて、統合の要素が弱いか、あるいは全く働かない文化は非常に危険だという問題意識をもって、こういう議論を展開したのだと思う。こういう文化では、社会の構成部分はそれぞれに孤立して存在するから、「うち」に向かっては求心的な力が働き、外に向かっては排外的な力が働く。「うち」と「よそ」が峻別されるわけである。その結果社会全体としては統合の力が弱まり、それぞれの人間は統合された全体社会の一員として自分を意識するのではなく、あくまでも自分が属する狭い世界の一員として意識するようになる。

こういう社会では、統合の要素は社会の内部からではなく、外部からもたらされるほかはない。外部からの力は、必ずしもその社会にとって望ましい結果をもたらすとは限らない。むしろ望ましくない結果をもたらす可能性が強い。日本がたどった超国家主義の悲劇がそれを物語っている。丸山が日本ファシズム批判の中で展開した議論のうちで、日本の社会のあり方が天皇を頂点としてヒエラルキー的に組織されていたという指摘があるが、それはタコツボ型の日本社会をまとめるものが天皇制イデオロギー以外になかったということを確認する議論でもあったわけだ。

このタコツボ社会のあり方は、日本を破滅へと追いやる最大の要因になったわけだが、タコツボ型はそのほかにもいろんな面で深刻なマイナス効果を発揮している。先ほど文学と社会科学との間で共通の言葉を使った対話が成り立たないことについて述べたが、同じようなことは芸術・文化のあらゆる部分で生じている。その結果日本には日本独特のタコツボ文化が栄えることになった。

タコツボ社会の最大の特徴は、「となりは何をする人ぞ」と言った具合に、隣近所を理解しないことであるから、自分が社会の中で占めている位置というものを正確に把握できない。その結果どういうことになるかと言うと、自分は隣の奴らから不当な仕打ちを受けているのではないかと妄想する被害者意識が蔓延することだ。つまりタコツボ同士で、隣のタコツボに疑心暗鬼になり、いらぬ心配をするばかりか、妄想が暴走してとんでもない言いがかりをつけたりもする。

これはもう理性的人間で構成される近代社会と言うのではなく、非理性的生き物で構成される餓鬼の世界というべきだ。そんな餓鬼の世界の段階から現実の日本は抜け出ていない。そんな趣旨のことをこの小論は主張したわけである。「実感信仰」の問題と並んでこの「タコツボ型」の議論が大方のタコツボ知識人から猛烈な反発を食らったのも、十分な理由があったというべきだろう。




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