知の快楽 哲学の森に遊ぶ
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ライプニッツにおける存在と論理


ライプニッツは観念論者であったが、その観念論とは唯物論に対比されるような意味での観念論であるというより、存在を論理によって導き出そうとする意味での観念論であった。

ギリシャの時代以来、哲学とは存在の根拠を問い続けるものであり、それを物質的なものと考えようと、イデアのような観念的なものと考えようと、まず問題とされるのは存在そのものの姿であった。その存在について、どのように説明すれば、世界がもっとも整合的に解釈できるか、哲学者はそれを求めて思索を続けてきた。だから唯物論といい、観念論といい、存在を一義的な与件として措定する点においては、共通の地盤に立っていたのである。

ところがライプニッツには、この存在そのものを棚上げして、論理のうちに遊ぶようなところがある。なるほど彼の論理学は言語のシンタックスを解剖するところで成り立っており、その限りで、主語―述語関係のうちに含まれている存在性(ドイツ語の Sein には存在という意味もある)を問題にしないわけではないのだが、問題設定としては、とりあえず存在は出てこないのである。

伝統的な議論においては、真理とは存在と一致する言明のことであった。だがライプニッツはそれを、純粋に論理的な整合性のうちに解消してしまう。つまり真なる言明とは、論理的に破綻のない言明のことであり、あらかじめ主語の中に含まれている述語が主語と結びついたところに成立する。

彼にとって真理とは言語的なトートロジーとあまり異なったものではない。だから存在する真理もありえれば、存在しない真理もありえた。

このようにライプニッツにとって、存在はあまり意味を持たなかったようなのだ。その証拠に存在とは、無数にある実体が自分の属性としてもっている多くの可能性のうちのひとつに過ぎないとされる。彼によれば、ある実体は存在するかもしれないし、存在しないかもしれない。だがそれは当面はその実体の価値とは無縁であるし、それを巡る言明が真理であることとかかわりがない。

世界には実体としてのモナドが無数に充満している。その無数のモナドは互いにかかわりを持たないにかかわらず、なぜか協調しているかのように、調和ある世界を作り出している。それは無数にあるモナドのうちで、互いに両立しあう部分が顕現し、その結果、整合的な事象のみが生じているからなのだ。

整合的な世界があるということは、それにかかわっているモナドの組み合わせに矛盾がないということを意味する。逆にこのような組み合わせと矛盾しているような属性をもったモナドは、顕現することを許されない。

上述の顕現をライプニッツは存在といっているようなのだ。それは可能なモナドの組み合わせのうちで、もっとも矛盾の少ないもの、いいかえればもっとも力強い組み合わせのことを意味する。

ライプニッツのモナドとは、実体のことであり、それは言い換えれば主語―述語関係における主語のことである。この意味でモナドとは、究極的には論理的なシンタックスからにじみ出てくるものである。世界には無数のモナドがあるというライプニッツの主張は、世界には無数の論理的な主張がありえるということを意味しているに過ぎない。

論理的な言明には、存在を内包するものもあれば、ただの空想に過ぎないものもある。いずれにしてもライプニッツにとって重要なことは、存在ではなく、論理であったということがいえようかと思う。





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作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2007-2008
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