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後衛の位置から:丸山真男の同時代批判


丸山真男の論文集「後衛の位置から」は、「現代政治の思想と行動」の英訳版の刊行がきっかけとなってできた本であると丸山自身が言っている通り、英訳版へ寄せた序文のほかに二篇の論文を収めている。

序文の中で丸山は、日本の政治に対する自分の姿勢が告発的な調子に満ちていて、「日本の知識人に伝統的だと思われている絶望的な自虐の典型的な表現」だとうけとられても仕方ない側面を持っていることを認めている。しかし、自分が対象とした日本の現実を前にしてはそうならざるを得なかったと弁解もしている。自分はなにも好き好んで自虐的になったわけでなく、日本の現実そのものが、それを批判させずにはおかない理由をもっていたというわけである。日本社会に病理的な側面が絶えない限り、自分はそれを告発することをやめないだろう、というのである。

一方丸山は、日本人が未来に向かって進歩していく可能性も否定しない。丸山はそういう姿勢をヘーゲルから学んだといっている。丸山の専攻は政治思想史だが、彼が日本の政治思想についての初期の論文を書いたのは、ヘーゲルの進歩史観に導かれてのことだったと告白している。この進歩への信頼の感覚が、丸山をしてマルクス主義の一定の受容をなさしめたのかもしれない。

二篇の論文のうち「憲法9条をめぐる若干の考察」は1964年の時点における政治的な情勢を前提にして、平和憲法としての日本国憲法の持つ歴史的な意義について、護憲の立場から論じたものである。この論文でも丸山は、日本の指導者に戦争のフリーハンドを与えることのメチャクチャな危険性について強調している。一握りの政治指導者の無責任な行動によって、膨大な数の国民が無駄死を強いられるという危険は、何も1945年の8月15日を以て終わったわけではなく、今後も繰り返し起きる可能性がある。そうさせないためにはどうしたらよいか。丸山の問題意識は、自らの戦争体験も含めて、つねにヴィヴィッドであり続けた。そんなことを感じさせる一文だ。

「近代日本の知識人」は、丸山自身を含めた日本の知識人の特徴について論じている。これもまた、日本の支配層について論じているとき同様に、かなり手厳しい見方をしている。

知識人と言う言葉は欧米におけるインテレクチュアルに対応するものと一応考えることが出来るが、実態においては、両者は似て非なるものである。欧米のインテレクチュアルは、組織人たると在野たるとを問わず、共通の関心事によって横に結ばれた階層であって、エリートとして国の文化を担っているという自負をもっている。彼らは専門分野によって分断されるという側面より、共通の関心を取り上げてそれをみんなで論じて行こうというような面を強く持っている。

ところが日本では、同じ問題意識を持ったものでも、大学教授と在野の学者では互いの行き来がなく、同じ大学教授でも専門分野が異なれば相互の交流がない。つまり一概に知識人とは言っても、共通した階層意識をもてず、様々に分断されている。知識人が欧米のインテレクチュアルのようにひとつの階層として国の方向をリードするということはない。それ故知識人と、その変形であるところの文化人といった言葉は、国民の尊敬を呼び起こすことはなく、せいぜい厄介者扱いされるだけだというのである。

日本でも知識人たちがひとつの共同体を作ろうとした時期が無かったわけではないと丸山は言う。その一つは明治維新直後の時期であり、次は大正デモクラシーの時期であり、三つ目は敗戦直後の時期であった。敗戦直後における日本の知識人たちは、戦争への自分のかかわり方を反省することを通じて、「悔恨共同体」ともいうべきものを、ほとんど無意識的に形成し始めた。そのさいに彼らが自己分析を含めて分析の道具にしたのがマルクス主義だった。マルクス主義には政治思想のみならず、哲学、歴史観、社会科学にわたる広大な分析枠組みが備わっていたので、日本の知識人たちはそれをよりどころにして、精神の共同体作りに励むことができた、そう丸山はいうのである。

しかしその試みは成功せず、知識人たちは再びばらばらになって、自らのタコツボに入ってしまった。精神の共同体としてのインテレクチュアルは、日本ではついに成立することがなかった。これが丸山の結論なのだが、どうしてそうなのかと言うことについては、明確にはいっていない。ただひとつ、日本のブルジョワジーの特異性に言及しているだけである。

丸山は「近代日本において、ブルジョワジーはかつて一度も普遍主義やヒューマニズムにコミットしたことが」なかったという。その裏返しとして日本にはユートピア思想が乏しい。ユートピア思想とは「夢や幻想ではなくて、現実に対する切迫した、またトータルな批判意識の所産」なのであるが、そうした批判意識が日本には根付かない。個々の知識人は、専門を超えて社会をトータルに批判する目をもたず、自分のタコツボに入り込んで、そこから社会を断片的に眺めているにすぎない。そう丸山はいうわけなのである。

だが日本でも、徳川時代には知識人たちの精神の共同体のようなものが成立していた。かれらはみな儒者であったが、儒学と言う共通の世界観をもとに互いに強く結ばれていた。そうして成立した精神の共同体においては、出身藩や地位の如何によらず、みな平等の立場で交際した。そこから生み出されてくる学問や文藝が日本の思想界をリードしていたのである。

こうした知的な共同体にどのような価値を付与すべきかは、別の問題だが、徳川時代には成立しえたものが何故明治維新以降は成立できなくなったか、そのあたりの事情を解明することにも何らかの意義はあるだろう。

ともあれこの論文集は、丸山真男の同時代に対する批判であるとともに、そこに生きている自分に対する批判であるとも、考えてよいだろう




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