知の快楽 哲学の森に遊ぶ
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サイデンステッカーの丸山真男批判


丸山真男著「後衛の位置から」には、アメリカの学者たちが「現代政治の思想と行動」英訳版に寄せた批評がいくつか紹介されている。その多くは好意的なものだが、ひとつ辛辣なのがある。エドワード・サイデンステッカーによるものだ。この人は、川端康成の「雪国」などを英訳した人として知られ、日本に大きな関心を抱き続けた人だったが、その人が丸山真男に罵倒に近いような批判の言葉を浴びせているのである。

彼はまず丸山を、日本人の皮肉屋の言葉を引用して「丸山教団」の法王と呼び、この教団がいかに日本的で、特殊なものであるかを強調している。「丸山はあくまでも日本的な現象である。さまざまな観念がこんぐらがった彼の文章を見ていくと、それが対象とする日本国民とその過去の倒錯について述べるところよりも、むしろ、その中に露わにされている"丸山教団"や日本知識人とその現在の倒錯を探るために読みたいという強い誘惑を覚える」というのである。

サイデンステッカーがこれほどにも丸山に否定的なのは、丸山のドイツ的な主知主義への反発からだろうと思われる。丸山はドイツ的であるばかりでなく、マルクス主義にも親しみを感じている。そういうわけだから、現代史を論じるときに、アメリカに対しては批判的になり、ソ連に対しては好意的になる。そこがサイデンステッカーの気に入らないところなのだろう。

以上は感情的な反応だが、業績に対する理論的な批判もある。丸山の「超国家主義の論理と心理」が日本の戦前の体制の特徴をよく捉えていることを認めたうえで、そこで展開されている「抑圧移譲」についての理論図式が、必ずしもその後の論文の中で一貫して扱われていないことを、彼は批判している。「抑圧移譲」の体系とはだれも責任を取らない無責任の体系だといっておきながら、第二論文「日本ファシズムの思想と運動」では、日本的な知識人を特別の階級としてとらえ、この特異な階級が日本のファシズムを担ったというような書き方をしているが、そうしたとらえ方は「抑圧移譲」の考え方とは矛盾しているのではないか、と言うわけである。

ところで、このファシズムという言葉の丸山による使い方にもサイデンステッカーは疑問を呈している。丸山はときに、アメリカの民主主義の危機について論じ、アメリカが「ファシズム」化するのを危惧して見せるが、いったいそうした言葉遣いによって丸山は何を意図しているのか。アメリカの「ファシズム」化と言うが、その「ファシズム」なるものが何を意味するのか、丸山ははっきりと規定していない、といってサイデンステッカーは丸山を強く批判する。

「それは何か"全体主義"といったものを意味するらしいが、ソビエトの"社会主義"とは明らかに違い、ソビエト"社会主義"は"進歩的"(これまたはっきりした規定がない)だからよいというのだ」 そういって、サイデンステッカーは丸山の学問的な曖昧さを批判している。

サイデンステッカーがこのように丸山を批判した際の心がまえというのは、今日の読者から見れば納得しがたいかもしれないが、1950年代初頭という当時の時代状況からすれば決して奇異なことではない。

というのも、丸山に対してサイデンステッカーがこうした批判をしたのは、米ソ冷戦の真最中のことだ。その真最中の時期に、サイデンステッカーはサイデンステッカーなりに、アメリカ流民主主義のソ連共済主義への優位というものを信じていたかった。ところが、そのアメリカが庇護しているひ弱い国である日本の、非常に影響力ある大学人が、反アメリカ的なプロパンガンダに現を抜かしているのはけしからぬ、そうした思いがサイデンステッカーの心の中にあってとしても、決して不思議ではない。

サイデンステッカーが批判したような点については、筆者もまたかねて感じていたところだ。たしかに丸山は「ファシズム」とか「進歩的」とかいう言葉を好んで使うが、それらの言葉によってどのようなことを意味しているのか、具体的な規定をしていないことが多いのである。ヘーゲルなら、彼流の哲学を記述するに際してそういうことをしても、誰も文句は言わないが(実際"精神現象学"などは無規定な概念の乱舞のようなものである)、社会科学の記述の場合にはそういうわけにはいかない。社会科学の記述に際しては、概念に曖昧さは許されないからだ。

こんなわけで、サイデンステッカーの丸山真男を見る目には非常に厳しいものがある。彼のそうした目には、筆者にも同感できるところがある。




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