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読史余論:新井白石の歴史観


新井白石は正徳二年(1712)すなわち将軍家宣が死んだ年の春から夏にかけて、侍講が終わるたびに、「本朝代々の沿革・古今の治乱」と題して、日本の歴史について進講した。「読史余論」は、その講義録というべきものである。序章に、「本朝天下の体勢、九変して武家の代になり、武家の代また五変して当代に及ぶ総論のこと」とあるように、清和天皇の代から始めて公家の政治の変遷を説き、引き続いて秀吉の代に至るまでの武家の政治の変遷を説いている。この間、公家の代九変のうち、六変以降の内容については、武家の代の五変と重なるが、歴史を語る視点が異なっている。すなわち六変以降の内容については公家の視点からこれを語り、五変については武家の視点から語っているわけである。

上中下三巻からなり、上巻で公家の九変を説き、中巻で武家政権成立から北条政権までを説き、下巻で後醍醐天皇の建武の中興以降秀吉の政権までを説くという体裁になっている。

清和天皇から説き起こすことについては、白石なりのこだわりがあると考えられる。この書物全体を通じてうかがえる白石の歴史観は、公家政治から武家政治へと変化したのは歴史の必然によったもので、公家政治は自らの内部から崩壊を招き、それを武家が引き継いで、公家の政治よりはましな政治を行ったというものである。清和天皇は、武家政治を担った最大の勢力である清和源氏の祖先であり、この天皇から説き始めることは、日本の歴史のなかでの武家政治の源流をそこに認めているからだと思われる。

公家政治はなぜ崩壊したのか。公家政治は後白河の代に頼朝に兵馬の権を奪われ、後鳥羽上皇が承久の変を企てて隠岐に流され、朝廷の権威は失墜した。これは、後白河法皇が「暗主」であり、後鳥羽上皇が「天下の君たらせ給ふべき器」でなかった結果であって、公家政治の衰退を招いた責任は朝廷の主権者の側にあったというのが白石の見方である。朝廷の権威が決定的に失墜したのは、北朝が足利氏の傀儡政権に貶められた時であって、この北朝を世の人々は「偽朝」と呼んで軽蔑した。南朝はたしかに正統の王朝ではあったが、「しかれども終に運祚のひらけさせ給ふ事なかりし事は、皆これ創業の御不徳によりて、天のくみし給はぬによれるなるべし」と白石は厳しく批判している。その結果、「天下の人、皇家あることを知らず」といった状態になったのであった。

このように公家から武家へと政権が移ったのは、必然の勢いであったと白石は考えるわけだが、そこにはある種の易姓革命観を白石が抱いていたことを思わせるものがある。単に実力によるのではなく、天の配列によって、武家が権力を掌握したという見方を白石はしていた。これは、朝廷の権威を絶対視し、あくまで朝廷を中心に日本の歴史を考えるという水戸学や頼山陽の立場とは大きく異なっている。水戸学や頼山陽は、儒教的名分論にこだわるあまり、日本の歴史の流れを一面的に捉える弊習に陥った。それに対して白石は、歴史の流れをより正確に捉えていたといえるのではないか。

そういう白石の歴史観に、実証主義的な姿勢を読み取る者は多い。今日では、白石は実証主義的な歴史家という評価が定着しつつあるようである。しかし白石の歴史観をよく分析してみると、公家に対しては非常に厳しく批判しながら、武家、特に徳川氏については、甘い見方をしている。白石は、信長や秀吉といった支配者にも結構厳しい目を向けているが、徳川家康については、神祖と呼んで、ある種の神格化をしている。これは、「読史余論」がほかならぬ徳川将軍家宣を相手に進講されたという事情もあって、白石が徳川氏に甘くなるにはそれ相応の理由があったのではあろうが、それのみにとどまらず、家康が易性革命の構図を完成させた人と見ていたのではないか。つまり白石は、徳川氏による統治を、単なる実力によるものとせずに、天の配列にしたがった、合理的な根拠にもとづくものだとして、徳川氏の政治に一種のお墨付きを与えたわけである。

こうしたお墨付きを、白石自らすすんで徳川氏に与えたことは、朝鮮からの使節を迎えるにあたり、徳川将軍を「日本国王」と改めさせたことにもつながっている。白石は、足利義光が己を「日本国王」と称した故事を参照してこの措置をとったと言われるが、そこには、皇室の権威はなきも同然であって、日本の真の支配者は武家の統領である将軍であり、その将軍こそが実質的に日本の王なのであるから、外交の場で将軍を「日本国王」を称するのは理にかなったことだとする認識があったのである。

白石のこうした姿勢を頼山陽は、「是足利氏を助けて虐を為すものなり」といって厳しく批判したが、白石としては、内実の欠けた名分で政治を行うことこそが、この国にとって害悪をもたらすと言いたかったであろう。山陽がいうような天皇と将軍の君臣関係は、形式上は存在するにしても、政治的には何の意味ももたなかったのである。政治は、内実をともなわない名分によって行われるべきではない。現実の権力関係にもとづいておこなわれるものであるし、またそう行われるべきものだというのが、白石の立場なのだ。白石を事実を重んじる実証主義者と捉える見方は、白石のそんな面に注目しているわけであろう。




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