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普遍的本質と個体的本質:井筒俊彦「意識と本質」


西洋哲学では、本質は普遍者をあらわす概念である。本質とは、或るものが何であるかという問いへの答えであると言ったが、その「何であるか」は、普遍的な概念として与えられる。それは徹底的に抽象的なものだ。西洋哲学とは、個別者を抽象的な概念の枠組みに当てはめることを主な関心事としながら発展してきた。だから、抽象的なものへの偏愛というべきものを、西洋哲学は持っている。東洋ではそうではない。東洋思想の殆どは、普遍者という抽象的なものには満足しない傾向が強い。日本人も例外ではない。その代表者として井筒は本居宣長をあげ、宣長がいかに概念的・抽象的思惟を嫌ったかについて言及している。宣長にとっては、同じ東洋人である中国人の思惟でさえ、概念的・抽象的に映った。宣長は、そうした概念的・抽象的な思惟に代えて、個体的で具象的なものにこだわった。かれが言う所の「もののあはれ」とは、そうした個体的・具象的なものを言語的に言い現わしたものなのである。

宣長のような考え方を、東洋の諸思想は、多かれ少なかれ分有していると井筒は言う。東洋思想は、概念的で抽象的な思惟には満足しないように出来ているのだ。だから、或るものが何であるかという問いに対しても、概念的・抽象的な概念を以て答えるだけでは満足しない。その答えは一応「本質」という形で与えられるが、その「本質」の内実を、普遍的・抽象的なものとしてのみ捉えるということにとどまらせない。「本質」に別の相があると考える。それは或るものが、個体的なリアリティを失わずに、ということは普遍化されないままに、それとして端的に存在しているような状態をさす。こういう考え方は西洋哲学にはないもので、或るものが個体的なリアリティを失わないまま、その本質をあらわすということはありえないのだが、東洋哲学は、ありうると考える。

「本質」についての東洋的な捉え方を井筒は、「普遍的本質」と「個体的本質」とに区分する。「普遍的本質」は西洋的な本質概念に近いものだが、「個体的本質」は西洋哲学にはないものだ。個物が普遍者に包摂されることが「本質」の意味と考える西洋哲学にあっては、「個体的本質」とは形容矛盾以外の何物でもない。

この普遍的本質と個体的本質という概念セットを井筒は、イスラーム哲学のタームに置き換えて説明する。イスラーム哲学では、本質について二つの概念を用意している。マーヒーヤとフウィーヤである。マーヒーヤが普遍的本質に、フウィーヤが個体的本質に、おおよそ対応する。おおよそというのは、マーヒーヤも完全に抽象的な概念というにはとどまらず、それなりのリアリティを持つと考えられているからだ、イスラーム哲学では、個体的なリアリティのほかに、普遍的なリアリティがあると考えるのだ。その部分はイスラーム哲学固有の捉え方で、それを一応脇へ置けば、マーヒーヤが西洋的な普遍的本質に、フウィーヤが個体的本質に対応するといってよい。

西洋的な意味に近い「普遍的本質」マーヒーヤは、基本的には人間の思考の対象としての概念であるから、実在性は持たない。それに対して「個体的本質」フウィーアは、実在性を持つとされる。個体であるから、実在しないわけがないのである。西洋でも、スコラ哲学においては、概念の実在性をめぐって、唯名論と実在論との対立が云々されたことがあるが、これは井筒によれば、イスラーム哲学の影響を受けた結果であって、通常の西洋思想は、概念には実在性を認めない。プラトンのイデア概念は、イデアに実在性を認めたが、西洋哲学はイデアの普遍性は引き継ぐ一方、その実在性は否定した。

本質には、マーヒーヤとしての部分とフウィーヤとしての部分があるとして、その両者の結合、あるいは同時成立に拘った芸術家たちがいると井筒は言う。芭蕉とリルケがそれだ。井筒によれば、芭蕉は、事物の表面的な輪郭の下に、そのものが明瞭に輪郭化(=分節化)される以前の、渾然一体的な存在感覚をつかもうとした。それは井筒のタームで言えば、マーヒーヤを超えてフウィーアに到ろうとする態度だった。日本の詩歌の伝統を強く束縛してきた古今集の世界が、明確に輪郭化された事物を対象としてきたのに対して、芭蕉は輪郭化・分節化される以前の、混沌としたあり方に対象の本質的な存在を見ようとしたということになる。

一方リルケのほうは、ものをその普遍的本質において見るのではなく、あくまでも個体的な存在者として見ることにこだわった。それは井筒のタームで言えば、マーヒーヤを拒絶してフウィーアに拘ったということになる。リルケの場合には、西洋人としては例外的なこうした態度をとったことで、大きなジレンマに直面したと井筒は言う。西洋の言語は、表層意識での働きを言語化したもので、そもそも深層意識の体験を表現するようには出来ていない。にもかかわらずリルケは、フウィーアを捉える過程での深層意識の体験をなんとか言語化しようとした。そこに「異様な実存的緊張に満ちた詩的言語、一種の高次言語が誕生した」と井筒は言うのである。

芭蕉とリルケの違いは、井筒によれば、リルケがマーヒーヤを否定してフウィーヤに拘ったのに対して、芭蕉はマーヒーヤを否定しなかったということらしい。ということは、芭蕉は既存の言語を用いて、自分の実存体験を表現することができたということか。もしそうなら、日本語にはそもそも、深層体験を表現できる語彙があるということになる。

井筒としては、リルケのようにマーヒーヤを否定してフウィーヤだけに拘っては、芸術としては成り立つかもしれないが、哲学あるいは思想としては成り立たない、という立場のようだ。哲学はあくまでも言語を前提とする。言語というのは、対象を分節化することを生命としている。だから、その分節化以前のものを内実とするフウィーヤだけを以てしては、言語の働きである哲学は成り立たないわけだ。それゆえ井筒は、この著書の中では、マーヒーヤを中心に据えて、それとフウィーアとのかかわりについて考察するという態度をとっている。以下その進み具合について追っていきたい。




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