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カッバーラー:井筒俊彦のユダヤ神秘主義論


カッバーラーは、ユダヤ教の神秘主義的部分である。これに井筒俊彦は、本質実在論の第二タイプ元型的本質論の一つの有力な例を見る。ユダヤ教は、神が無から世界を創造したとする。これは、キリスト教やイスラームも受け継いだセム的宗教の基本的な考え方である。この考え方によれば、神は世界の外側から働きかけて、世界を作ったということになる。神は世界を超越した存在なのだ。これに対してカッバーラーは、神を世界から超越した存在だとは見ない。神は世界にとって内在的な存在なのだ。つまり、神が自分自身の内部から世界を生んだという見方をする。というより神が顕現したもの、それが世界だと見るわけである。

これはある部分で、イスラーム神秘主義にも共通した考え方だ。イスラーム神秘主義のスーフィズムも、世界は神が顕現したものだと見る。神は世界にとって外在的な存在ではなく、内在的な存在である。内在的な存在として、神には世界のタネのようなものがあり、それが展開することによって世界が生まれるという見方をする。その見方が極端に走ると、神以前に存在の究極的な根拠を置き、神も又その根拠が顕現したものだと見るようにもなる。そこまでいくと、神を否定することにもつながりかねないので、イスラームにあっては、スーフィズムのような神秘主義は異端として抑圧されてきたのである。

カッバーラーは、スーフィズムとは異なって、神を超えた究極的な原理を認めない。神が最後の究極的な原理である。神から世界が生まれて来たと考える。ただ主流のユダヤ教と違うのは、神が世界の外側から、世界を無から作ったとは考えずに、神自身の内部から、いわば神が自己を疎外するようなかたちで、世界として顕現したというふうに考える。世界は神に内在していると考える点では、スピノザの説を思わせる。スピノザも又、神は世界を超越しているとは考えずに、神が自身の内部から外部へと顕現したものが世界だと考えた。世界は神そのものが展開したものであるから、世界のあらゆる部分は神の一部である。そうしたスピノザの考え方はアニミズムに通じるものがあるが、それはユダヤ教徒にとっては、神を貶める考え方だ。実際スピノザは、ユダヤ人社会では、異教徒として断罪されたのである。

カッバーラーにとって神は、世界がそこから生じて来た原材料のようなものだ。それも意思を持った原材料だ。その原材料が、意欲的に自分を分節化することで、個々の存在者が生まれ、それが世界を構成する。世界は、神が自分の外部に向って展開し、顕現したものなのだ。だから世界内の存在はすべて神と結びついている。というより神に根拠を持っている。だがその結びつきはストレートなものではない。神と個々の存在者とを媒介する中間項がある。それが元型である。そういう意味でカッバーラーは、元型的存在論の一タイプなのである。

神はどのようにして自己分節をし、存在者の世界として顕現するのか。カッバーラーは、言葉によってだとする。というより神は言葉なのだ。このように言葉を重視するのは、ユダヤ教も同じだが、ユダヤ教は神と言葉とを同一視しない。神は言葉を生み出すものである。神によって生み出された言葉が、世界の形成原理になることはあっても、言葉が神を規定することはない。ところがカッバーラーは、言葉は神そのものだとする。神は言葉として活躍しているのだ。その言葉が世界の形成原理として、この世界を作り出していく。その場合に、言葉がストレートに存在者として顕現するのではなく、そこに中間項が介在することは、先ほど触れたとおりである。

その中間項は、曼荼羅と同じような元型という形をとる。その原型が、事物の本質としての働きをする。現実の個体は、この本質が具体的な形となってあらわれたものである。元型が本質として働き、個々の事物が日常的な経験世界として顕現するという構図が、カッバーラー的本質実在論の決め手である。この場合曼荼羅に相当する元型は、セフィーロートと呼ばれる。原型としてのセフィーロートはまた、易における卦に相当する。易が、卦の組合せによって世界を解釈するように、カッバーラーは、セフィーロートの組合せによって世界を解釈する。

セフィーロートは神である言葉が自己展開して形づくられるものである。神である言葉は、その構成要素としては22の子音からできている。その子音の最初のものはアーレフという。オウム真理教の残党が用いている言葉だ。そのアーレフが言葉の第一原理として、ほかのさまざまな子音に働きかけて、セフィーロートが生まれて来る。セフィーロートには十種類あると井筒はいう。それが元型の根本で、これら十種類のセフィーロートがさまざまに組み合わさって、無数の本質イメージが形成される。この場合大事なのは、神である言葉から、元型や本質が生み出されるのが、一回きりの出来事ではないということだ。元型の形成やそれに基づく本質の誕生は、不断のこととして絶えず行われている。神はたった一回の出来事としてだけ世界を生みだしたわけではなく、常に絶え間なく世界を生みつつあるのだ。世界は不断に創造されているのである。

以上は、カッバーラーにおける存在論的な議論であるが、それと並行して、認識論的な議論というか、人間の意識に即した議論というのがある。元型としてのセフィーロートは、神が自己分節することによって生ずる存在者であるとともに、人間の意識の対象でもある。しかしそれは表層意識によっては捉えられない。表層意識が捉えられるのは、あくまでも日常経験的な現象である。その現象は、元型がさらに具体的にイマージ化した後の現れ方である。元型そのものは、深層意識によってしか捉えられない。というか、人間の深層意識は、元型を把握するように出来ているのである。

井筒は言う、「『元型』を心理学上の一つの要請にすぎないとする人々も、『元型』イマージュの深層意識的実在性だけは、体験的事実として、どうしても認めないわけにはいかない」。どうやら井筒自身も、元型を深層意識の領域で体験的に把握したことがあるような言い方である。そういう元型イマージュは、ユングも語っていた。

ともあれ、カッバーラーにおける元型イマージュは、神が自己分節した結果生まれるもので、それが存在論的には実在する本質となり、人間の意識においては深層意識的な実在性を帯びるということになる。人間がそれを把握するのは、ある種の直観としてであろう。それは概念的な認識ではない。実在的な対象を、トータルにしかも一瞬にして直観するのだと思う。思う、というような消極的な言い方をするのは、小生は井筒のようには、元型イマージュを体験的事実として把握したことがないからだ。第一、小生には、自分の深層意識を自由にコントロールできるような離れ業は、とうてい縁がない。


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