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井筒俊彦のデリダ論


強い影響力を持つ現代の哲学者のうち井筒がもっとも注目するのはジャック・デリダである。その理由はデリダのユダヤ性である。井筒はユダヤ教に深い関心を寄せ、とりわけカッバーラーの思想については、井筒の考える東洋的な思想のあり方の一つの典型として捉えているわけだが、そうしたものとしてのユダヤ性を、井筒はデリダの中に見たわけである。ユダヤ人の思想家としては、ほかにフッサールとかレヴィナスなどがあげられるが、そのなかで特にデリダに注目するわけは、デリダが西洋哲学の伝統に挑戦して、その解体(デコンストリュクション)をめざしたところにあろう。井筒も又、東洋哲学を以て西洋哲学を相対化しようとする路線をとっており、その自分の路線にデリダがつながると見たことが、彼のデリダへの強い関心の淵源なのだろうと思う。

「デリダの中の『ユダヤ人』」と題した小論の中で井筒は、エクリチュールとか相異=相移とか解体とかいったデリダのキー概念を取り上げて、そのユダヤ性を論じている。その前に井筒は、デリダのユダヤ性は、表層意識の部分においてではなく、深層意識の部分で働いているとみなす。表層意識における部分では、デリダにはギリシャ的な性格、つまりヨーロッパ哲学の伝統につながる部分が強く見られるという。かれのユダヤ性は、深層意識においてこそ、強く働くというのである。

まず「エクリチュール」。デリダの「エクリチュール」概念は、「限りない記号の遊動、それに伴う世界テクストの、始原も終末もない流動性」を意味するのだが、その概念の構造には、「砂漠を行くさすらいの民の強靭な、しかし妙にもの悲しい、ノマディズムの響きがある」という。そのもの悲しさが、ユダヤ的だというのだ。何故ならユダヤ人の意識は、根源的に悲劇的意識だ」からということらしい。こう言われても、いまひとつピンとこないが、「エクリチュール」については、井筒は別稿で詳しくとりあげていることもあって、この小論ではこれ以上深追いしていない。

ついで「解体」。これは「Deconstruction」の訳語である。「脱構築」と訳されるのが普通だ。言語学者の丸山圭三郎は「解体・再構築」と訳しているが、これが原語のニュアンスをもっともよくあらわしている。「Deconstruction」とは、西洋哲学の伝統を破壊・解体して、それとはまったく異なる思想を新しい伝統として構築することを意味している。ニーチェを思わせるこの立場は、何を以て破壊されるべき伝統とするのか。「現前の形而上学」あるいは「ロゴス中心主義」だという。ロゴス中心主義は、すぐれてギリシャ的な伝統と思われているが、実はユダヤ的な世界観もロゴス中心主義である。したがってデリダは、ギリシャ的なものとユダヤ的なものを併せて、否定しようとするわけである。ということは、デリダは反ユダヤ的であることを物語る。しかしそれは表層意識の部分でのことであって、深層意識の部分においては、そうではない。その部分ではデリダはユダヤ的だと、井筒は言うのである。

ともあれ、ロゴスとは永遠不変の超越的実在を意味する。そのロゴスが意識に現前するというのが「ロゴス中心主義」あるいは「現前の形而上学」の内実である。この「ロゴスの現前」をデリダの「解体」理論は否定する。「ロゴスなるものは絶対に現前しない。つまり、経験的現実に裏はない、というのだ。いわゆる現実とは、流動する記号のたわむれ現象であり、いわゆる事物とは、永遠に現前することのないものの『痕跡』にすぎない。今、ここに、何かを捉えた、と思った瞬間、見ればそのものはもう手の中にはない。この『捉えそこない』がどこまでも続いていくのだ。ものの『痕跡』だけが、無限に続く」というわけである。

「絶対的ロゴスの絶対的現前の否定、それをデリダは終末論の否定という形で表現する。『神の死』が、終末論の否定という形をとるのだ。終末論の否定とは、文字通り、『極限』の否定である。どこまで道を辿っていっても、ついに道の終局には到達できない、ということである」

終末論の否定は、「宗教的には、神の世界創造と世界終結との否定を意味するが、哲学的には、全存在世界からの存在論的根拠剥奪、一切事物の無根源性の主張にほかならない」と井筒は確認する。無根源的なもの、つまり根拠をもたないものは、それ自体であることはできない。それは単なる記号の戯れと化す。しかして、「絶対的なそれ自体性を持たぬ記号の存在には、存在の究極的充実はない。究極的充実を持ちえない記号、『痕跡』は、しかし充実を求めて浮動する」

終末論とは、すぐれてユダヤ的な考えだとされているので、それを否定するデリダは、やはり反ユダヤ的だと思われがちだが、デリダが終末論にこだわっていることには違いない。そこがデリダのユダヤ人らしい所以だと井筒は言う。ユダヤ人でなければ、否定的な形にしろ、終末論にこんなに強くこだわるはずがないというわけである。

つづいて、「相異=相移」。これは「Differance」の訳語である。「差延」と訳されるのが普通だ。「difference」をもじったデリダの造語である。なかなかわかりづらい概念なのだが、それを井筒はわかりやすく説明している。

井筒によれば、デリダのいう「Differance」とは、「解体」論でいうところの「否定的終末論」をさす。「終点のない終末」の事態を、デリダは「Differance」と名づけるというのだ。「Differance」とは、終点の到来が次々と繰り延べられていくことを意味する。「あらゆるものが、どこまでも、それ自体であることから繰り延べられていく、いかなるものも、それ自体の現前から隔てられている。そして、それ自体から隔てられている。ということは、要するに、それ自体と異なっている、ということだ。『相移』differanceとは、すなわち『相異』differenceなのである」

こうしたデリダの存在観に井筒は、デリダのユダヤ性を強く感じるらしい。終局からいつでも、どこでも隔てられているとするようなスタンスは、「ユダヤ的(実存の)不安」を感じさせる、というのだ。その不安は、「『砂漠』をさまよい続ける『ユダヤ人』の存在の中核に纏綿する不安の感触」だというわけである。

以上、デリダの思想の基本的概念をとりあげた後で井筒は、デリダがまぎれもないユダヤ人であることをあらためて確認する。デリダは、終末論を否定しながらも、つねの終末論に戻って来る。「解体」論は終末論の否定であるし、「相異=相移」は終末の繰り延べについての議論だし、「エクリチュール」にしても、やはり独特の終末論を前提にしている。そんな具合にデリダは、「繰り返し繰り返し、終末論的なものに戻ってくる。『終末』はデリダの思想のキーノートだ。終末論的ヴィジオン、終末論的形象が、哲学する彼の意識空間を満たしている、たとえそれが否定的屈曲性においてであるにしても。終末論への、この執拗な関心において、デリダは、まごうかたなき『ユダヤ人』なのである」

ともあれ井筒は、経験的世界が存在の究極的根拠を持っていないとみなすことに、経験的世界を妄念の現われとする仏教の考えなど、東洋的な考え方につながるものを、デリダのうちに見ているようである。




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