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竹内好のアジア主義を読む


竹内好は丸山真男と並んで戦後の日本の思想をリードした人だ。丸山が西欧諸国の近代化を参照軸にして日本の後進性を論じたのに対して、竹内は中国を中心としたアジアを参照軸にして、日本という国の特異性を論じた。戦後はともかく、現代においても、日本をアジアとの関連で論じようとする視点は、日本人にはほとんど見られないので、竹内の視点は非常に意義があると言える。もし竹内の議論が日本人によってもっと真剣に受け取られていたら、日本は今とは違う道を歩んでいたと思う。少なくとも、東アジアのなかで孤立するようなことにはなっていなかったはずだ。竹内の理想によれば、日本はアジアの一員としての自覚を持って、アジアに眼を向け続けるべきであった。そしてアジアのリーダーとなって、アジアの存在価値をもっと高める努力をすべきであったし、また日本の実力をもってすればそう出来るはずだった。ところが現実はそうはならなかった。日本はあいかわらず、欧米にばかり眼を向け、アジアに対しては侮蔑的な姿勢をとり続けてきた。そういう姿勢を竹内はドレイ根性のあらわれだと言った。たしかに今の日本はアメリカに従属し、そういう姿勢を総理大臣自ら妾と自称して憚らなかったことを考えると、竹内の指摘はあたっている。

「日本とアジア」と題した論文集は、日本をアジアの視点から眺めたときにどのように映るか、そういう問題意識に立って書かれた文章を集めたものである。1966年に刊行された「竹内好評論集」の第三巻をなすものだ。個々の論文が書かれた時期は、1948年から1965までに渡っている。

「中国の近代と日本の近代」と題した文章は、この論文集全体の序論と言ってもよく、竹内の問題意識がもっともストレートに現れている。その問題意識とは、中国などアジア諸国に比較した日本の近代化の特性をどうとらえるかということであり、また、その特性の持つ問題点を克服して、日本が真に自主的で独立した国家となるには何が必要かという問いであった。その問いに竹内が十全な答えを用意しているとは言えないようだが、少なくともそういう問いを出すこと自体が竹内のユニークな所以であった。ほかの日本人には、そういう問い自体が思い浮かばなかったと言ってよい。

この論文は、日本の特殊性を中国との対比から浮かび上がらせようとするものである。竹内は中国にあって日本にないか、あるいは少なくしかないものを、抵抗というものに見た。中国には抵抗がある。魯迅がそれを体現している。ところが日本には抵抗がないか、あるいは非常に少ない。その結果どういうことになるか。

抵抗ということを竹内は必ずしも概念的に明らかにしているわけではなく、なんとなく前提しているのであるが、抵抗がないことの効果についてははっきりと言っている。抵抗がないというのは竹内にとっては「自己保持の欲求がないこと」を意味する。そして自己保持の欲求がないのは、自己に主体性がないからだ。主体性がないということは、自分が自分であることに無関心であることを意味する。自分が自分であることに無関心であることは、自分がないというに等しい。だから日本人は自分というものを持たない。あるべき自分がないのだから、日本人は何にでも簡単になることができる。日本人が新しもの好きなのは、こうした自分のなさに起因している。自分のなかが空っぽなのだから、何にでもなることができる。進歩とは、古い自分を捨てて新しい自分になることだ。

竹内は言う。「ヨーロッパでは観念が現実と不調和(矛盾)になると(それはかならず矛盾する)、それを超えていこうとする方向で、つまり場の発展によって、調和を求める動きがおこる。そこで観念そのものが発展する。日本では、観念が現実と不調和になると(それは運動ではないから矛盾でない)、以前の原理を捨てて別の原理をさがすことからやりなおす。観念は置き去りにされ、原理は捨てられる。文学者は言葉を捨てて別の言葉をさがす。かれらが学問なり文学なりに忠実であればあるほど、ますます古いものを捨てて新しいものを取り入れるのが激しくなる」

この議論は丸山真男が日本思想の特質を論じたあの議論を思い出させる。丸山は、日本の思想には連続性がないといった。昔から日本の思想は断絶の連続だった。それは日本に固有の思想がなく、思想と言えば海外から入ってくるものだとの思い込みを反映したものだった。一時代の思想が行き詰まりを見せると、日本人はそれをそっくり捨てて、別の新しい思想を海外から輸入する。しかも一点セットという形で輸入するから、すべてはそれで間に合う。古い思想との連続性とか葛藤とかいったことは一切考慮されない。思想はその新しさに価値の源泉がある。思想は新しければ新しいほど正しいとされる。

こうした丸山の議論と竹内のここでの議論は非常に似通っている。どちらが先にそうした議論を展開して見せたのか。おそらく竹内のほうだったろう。ところが竹内のほうは今ではほとんど顧慮されることがなくなったために、こうした議論は丸山の専売特許のように、いまでは受け取られている。

ともあれ竹内はこう指摘することで、日本人には主体性が欠如しており、その理由は日本人には抵抗の姿勢がないからだと言うわけである。竹内はあらためて強調する。「こうした主体性の欠如は、自己が自己自身でないことからきている。自己が自己自身でないのは、自己自身であることを放棄したからだ。つまり抵抗を放棄したからだ。出発点で放棄している」

これに対して中国人は、抵抗を放棄していないと言う。魯迅はその典型だ。「魯迅のような人間が生まれるのは、激しい抵抗を条件にしなければ考えられない」

こうして竹内は抵抗をキーワードに使って日本と中国との比較を行うのである。日本では新しいものが無抵抗に導入され、古いものが抵抗もなく捨てられる。だからこそ日本人は簡単に転向できたのだ。転向とは古いものをそっくり捨てて新しいものを身につけることだ。「転向は、抵抗のないところにおこる現象」なのである。「つまり、自己自身であろうとする欲求の欠如からおこる。自己を固執するものは、方向を変えることができない。わが道を歩くしかない。しかし、歩くことは自己が変わることである。自己を固執することで自己は変わる」

それゆえ自己に固執して抵抗する中国人には転向はありえない。中国人にあるのは回心だ。「回心は自己を保持することによってあらわれ、転向は自己を放棄することからおこる。回心は抵抗に媒介され、転向は無媒介である」

しかし無抵抗で自己を保持せず、つねに転向している日本人にとって、逆に言えばそれが長所ということになる。中国人は抵抗にこだわったために近代化に失敗した。日本人は抵抗にこだわらなかったために自ら進んで西洋化し、そのことで世界に冠たる一流国家を作ることができた。したがって無抵抗とかそれがもたらす自己の欠如を全くのマイナスとばかり考えるのは行き過ぎだ。いいところもきちんと評価しなければならない。そう竹内は念を押す。

とは言っても竹内は、そうした日本人のあり方がトータルで優れているとまでは言わない。その証拠に竹内は、日本人のドレイ根性に言及している。そのドレイ根性は自己の欠如に由来していると竹内は考えているようなので、やはり日本人の特徴である自己の欠如は、基本的には克服されるべき弱点だと考えているようである。もっとも竹内はそのために必要な処方を示しているようには見えないのであるが。



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