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パイドン読解


「パイドン」は、プラトンの著作活動中期の比較的早い時期に書かれたと考えられる。「饗宴」とほぼ同じころ書かれたのではないかと思われるが、どちらが先かははっきりしない。「パイドン」が先だと主張する学者は、「パイドン」で大きなテーマになっている想起説が、初期の最後に位置する「メノン」の議論の延長であることに注目する。「メノン」で初めて取り上げた想起説を、引き続き「パイドン」でも取り上げ、議論を深化させたというのが、彼らの主張の要旨である。つまり「メノン」との連続性において「パイドン」を位置付けているわけである。これに対して「饗宴」のほうが先だとする主張は、イデア説の取り扱い方に着目する。イデア説が、イデアとかそれに類似した言葉で語られるのは「パイドン」が最初なのだが、その概念の実質的な内容は、「饗宴」でも語られていた。その「饗宴」で語られたイデア的なものについての議論を、「パイドン」で深めたというのが、この主張の要旨である。

いずれにせよ「饗宴」と「パイドン」とはほぼ前後して書かれたと思うのだが、それにしては、対話篇全体の雰囲気がずいぶん違う。「饗宴」は全体的に華やかな雰囲気が漂っており、そこに描かれたソクラテスは、論題がエロースということもあったが、同性愛を中心とした人間の性愛、つまり性的な快楽に対して肯定的に描かれている。ソクラテスのいうエロースは、かならずしも肉体的な快楽に止まるものではなく、むしろ精神的な面を重視するのではあるが、それにしてもエロースについて喜ばしい様子で語るソクラテスには、謹厳君子という言葉はあてはまらない。どちらかというと、陽気な快楽肯定主義者といった趣が強い。

一方、「パイドン」にはそうした陽気な雰囲気は全く見られない。ソクラテスは謹厳君子然といった態度に徹しているし、彼と対話する人々も真面目そのものである。これは、状況がソクラテスの刑死する当日に設定されていたり、テーマが霊魂の不死であることにもよるが、なによりも、知を愛するもの、つまり愛知者・哲学者としてのソクラテスの本来の姿はこのようなものであった、ということを弟子のプラトンは言いたかったのではないか。知を愛するソクラテスは、生涯最後の日に、知のうちでももっとも知るべきもの、すなわち霊魂の不死・不滅について、最後の知力を振り絞って考え抜いた、というのが、この対話篇の内実なのである。

「パイドン」はこのように、ソクラテスの最後の日について語っているのだが、それと同じ趣旨の作品として「ソクラテスの弁明」がある。「ソクラテスの弁明」は、法廷での最終弁論の様子を再現したあと、死刑判決を受けたソクラテスが、その日のうちに服毒死するというふうに設定されている。ソクラテスの刑死する場面は、直截触れられているわけではなく、したがって主題的に言及されることはない。あくまでも、法廷における弁論が中心であって、その弁論は、自分を訴追するものへのソクラテスの反論からなっていた。それに付随して、ソクラテスの思想の一端が語られることもあるが、それは例外扱いであって、主題はあくまでも、ソクラテスの自己弁明である。その自己弁明のなかでソクラテスは、自分は誤った理由で訴追されたのではあるが、したがって無罪を主張するが、しかい最終的に自分について下された判決には、それがどのようなものであっても服すつもりだという。法に従うのが市民としての義務だから、という理由からである。

「ソクラテスの弁明」は、ソクラテスが刑死した直後に書かれた。プラトンの最初の著作である。プラトンはその時三十歳前後の若者であった。ソクラテスを深く尊敬していたプラトンは、ソクラテスというすぐれた人間がかつてアテナイに存在し、人々を正しく導いていたということが、忘却されることを恐れて、この著作を書いたのだと思う。プラトンとしては、ソクラテスは誤った理由から死刑にされたのであって、その高潔な人格にはいささかも汚点はなかったということを、強く主張したかったに違いない。これに対して「パイドン」のほうは、ソクラテスの刑死とその原因になった裁判の内容には一切触れていない。ソクラテスに死刑が執行される当日に、親しい人びとが駆けつけて、ソクラテスとの間で最後のデェアレクティケーを行ったという設定である。したがって、この対話編は、中期以降のほかの多くの対話編同様、ある特定のテーマをめぐる議論を紹介するという建前をとっている。そしてこの対話篇でテーマとなったのは、ソクラテスの刑死に相応しく、霊魂の不死・不滅であったというわけである。

「ソクラテスの弁明」では、ソクラテスは死刑宣告を受けた直後に毒を仰いで死んだということになっていた。ところが「パイドン」では、死刑判決とその執行との間に、かなりの時間が介在したことになっている。その理由も編中で述べられている。ソクラテスに死刑判決が下された時に、アテナイはデロス島へアポロンの祭祀を祝う船を派遣した。この船にはいわくがあった。かつてアテナイは、クレタとの戦争に敗れたさい、講話条件として毎年七人の若者と七人の乙女を生け贄に差し出すことを約束させられたが、三年目に英雄テーセウスが自らクレタに乗り込んで、クレタ王ミノス(半人半牛の怪物)を退治した。それ以来、その武運を感謝するために、毎年デロス島のアポロン祭祀に使節団を乗せた船を派遣するようになった。アテナイでは、この船が戻ってくるまでは、一切の刑の執行を中止する慣例があった。ソクラテスへの刑の執行は、この慣例のために先伸ばしされたのである。史実としてどちらが正しいか。つまりソクラテスは判決後直ちに刑死したのか、あるいは一定の時期を隔てて刑死したのは、実際のところはわからない。

さて、この対話編は、ソクラテスの最後の日に居合せたパイドンが、故郷のエリスに帰る途中、プレイウスに立ち寄ったさいに、土地の人エケクラテスの求めに応じて、ソクラテス最後の日の様子を語ったという設定になっている。パイドンは、エリスがスパルタとの戦争に負けた際に捕虜となって、アテナイで奴隷として売り出されたのだが、その際にソクラテスに助けてもらい、以後ソクラテスに感謝して、師と仰いでいた。ソクラテスには、もっとも身近な人だったわけである。そのパイドンにソクラテスの様子を聞いたエケクラテスは、ピタゴラスの徒であった。そのかれが何故、ソクラテス最後の日の対話に関心を抱いたかというと、その際ソクラテスの対話の相手となったのが、同じくピタゴラスの徒であるケベスとシミアスだったからだ。この二人は、テーバイの人だったが、テーバイはギリシャ本土におけるピタゴラス派の拠点だったのである。

プラトンは、四十歳ごろにイタリアのシケリア島に旅行し、その際現地のピタゴラス派の人びとと交わった。また、オルペウス教などとも接したらしい。その経験が、ソクラテスに一つの転機をもたらした。イデア論をはじめとした、プラトン中期の観念論的な思想には、ピタゴラス派の影響が見られるのである。この対話編は、イデア論を本格的に論じた最初のものであるが、そこにはイタリアで体験したピタゴラス派的な雰囲気が大きく作用していると指摘できる。

以下、この対話篇の内容を、テクストに即して、逐次的に追っていきたいと思う。テクスト本文は、岩田靖夫訳の岩波文庫版を用いた。



パイドン読解その二
パイドン読解その三
パイドン読解その四
パイドン読解その五
パイドン読解その六
パイドン読解その七
パイドン読解その八


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