知の快楽 哲学の森に遊ぶ
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ハイデガー「存在と時間」を読む


ハイデガーの「存在と時間」には色々な読み方がある。この本自体が未完成な作品であり、ハイデガーが何故これを未完成のまま放棄したのか、ということがあるし、それ以上に、この本が二十世紀の思想に及ぼした影響があまりにも巨大なので、その影響が拠って来たった理由とか、影響の及んだ範囲を考えると、そこに色々なファクターを求める動きが当然でてくるし、それが読み方にも作用するということがある。また、ハイデガーがとった政治的な動き、それは誰によっても弁護のしようがないグロテスクな行為というふうに見られているわけだが、そうしたハイデガーの政治的スタンスとの関係において、この本をどのように評価すべきか、という事情もある。そんな複数の要素が働いて、ハイデガーの主著であるこの「存在と時間」という本は、一筋縄では捉えられないというわけである。

この本が未完成のまま中断されたということについては、ハイデガー自身が序説の中でこの本の全体構想を示しているので、それを参照しながら、未完成の度合いを測ることが出来る。その構想は、序説第二章第八節「論究の構図」というところで示されている。それによると、この本の課題は、存在の意味への問いに答えることだが、そのためには、現存在という特殊な存在者(つまり人間)を手がかりにして存在という普遍的なものへ迫っていくという方法がとられるべきであること、そして現存在の固有な存在論的意味は時間であることが明らかにされるべきであること、またこうして得られた存在の概念、それは時間性を本質としたものだが、その概念をもとに西洋の伝統的な哲学の歴史を見直すことにある、ということになる。というわけでこの本の構成は二つの部門に分けられ、第一部では「時間性へ向けての現存在の解釈および存在についての問いの先験的視界としての時間の解明」、第二部では「存在時間性の問題を手引きとする存在論の歴史の現象学的解体の概要」が提示されるはずであった。ところがこの本は、第一部の途中、つまり三篇からなる部分の第二編のところで中断している。全体構成からすれば、三分の一しか書かれなかったということになる。

このように「存在と時間」という著作が途中で放棄されたことについては、大きくわけて二つの評価がある。一つは、全体構想との関連は当然考慮しなければならないが、書かれた部分はそれだけでも十分に自立した意義を持っている。それは単純化していえば現存在の解明ということになるが、この現存在分析はそれだけで、西洋の哲学的な伝統を革新するようなインパクトをもったものだ。だから我々読者は、手許にある「存在と時間」から、余計なことを考えずに、その主張を素直に受け取ればよい、という立場である。

もう一つは、この本の真の目的は、書かれた部分だけからでは読み取れない。それを正しく読み取るには、ハイデガーが全体構想によって何を考えていたかを明らかにしなければならない。そうでなければ、この本が、「存在」への問いに答えるものであり、また西洋の哲学的伝統を解体しようとするようなラジカルな意図をもっていることを理解できない、というものである。日本の哲学研究者である木田元は、そうした立場をとっていて、ハイデガーが当初考えていた全体構想を明らかにし、それと関連させながらこの本を読まないでは、正しい理解は得られないと主張している。木田はそう主張するだけではなく、実際自分自身ハイデガーの抱いていた全体構想を構築する努力をしている。その結果木田がたどりついた結論は、この本はよくいわれるような実存主義の哲学などではなく、あくまでも「存在」への問いに答えることを目指した存在論の試みなのだ、ということになる。その存在論は、西洋の伝統的な存在論とは正面から対立する筋合いのものであって、したがって西洋哲学の常識を根本から覆すものだ。ハイデガーは、全体構想の中で、「存在論の歴史の現象学的解体」と言っているが、この言葉は単なるこけおどしではなく、ハイデガーがそれを実施していたら、哲学史の見方を根本的に変えるものになっていたに違いない、そう木田は主張するわけなのだ。

木田がそうは言っても、ハイデガー自身がその全体構想を実現できなかったわけであるし、それを読者が念頭に置いてこの本を読めといわれても、しんどいというものだろう。そういうわけで、筆者も含めて普通の読者は、とりあえずこの本に書かれていることをもとに、ハイデガーがこの本を通じて何を訴えようとしたのか、それを理解するよう努力するほかはない。世の中には、この本を含めてハイデガーの言説全体をナンセンスの塊と見る人もいて、そうした人々には、全体構想もクソもないのであろうが、とりあえず筆者のような哲学マニアにとっては、ハイデガーというのは興味をそそられる対象であるし、また、なかなかうならされるところが多いので、スクラップ扱いするわけにはいかないのである。

そんなわけで、これから筆者なりに「存在と時間」を読み説いていきたいと思うが、その読み方の基本は、先程も触れたように、あくまで手許にあるテクストに沿って読もうとするものである。ハイデガー自身が、そうしたテクストの中で、この本の目的は存在への問いに答えることだと繰り返し言っているわけであるから、筆者としても、この本は存在への問いに対するハイデガーなりの答えなのだと思いながら読み進みたい。

そこで、ここではまず、序説冒頭の部分で、存在への問いを立てるにあたって、人が注意しなければならぬこととして、ハイデガーが提示している三つの点について言及しておきたい。

まず、「存在はもっとも普遍的な概念である」ということについて。存在はすべてのうちで最もすぐれて普遍的である、ということは西洋の哲学的な伝統にあっては、いわば常識になっているわけだが、この場合、存在の普遍性は、類概念のそれではないことに注意すべきだとハイデガーは言う。存在の普遍性は、すべての類的普遍性を越えている。中世の存在論の用語に従えば、存在は一つの「超越概念」ということになる。

従って第二に、存在という概念は定義できない。概念的な定義というものは、最も近い類と種差によって作られるわけだが、存在はすべての類を越えているのであるから、このやり方は通じない。「定義を下そうとしても、存在は最も高い概念からも導かれないし、また最も低い概念でもって述べられも」しないのである。

ということは第三に、存在は定義より以前の、自明の概念である。「認識や叙述のすべてに、また存在するものへの、また自分自身に向けての関り合いのすべてに、『存在』(ある)という語が用いられ、その場合、そのような表現は『とやかく言わずに』理解」される。つまり存在とは、定義の問題ではなく、事実の問題なのだ、とハイデガーは言っているわけである。こういうと本質存在に対する事実存在の対立という中世以来の哲学史上の問題を想起してしまうが、ハイデガーはなにも、本質存在に対する事実存在の優位を主張しているわけではない。本質存在とか事実存在とか、そういう区別が生じる以前の、単純な存在のあり方、それをハイデガーは出発点に据えるわけである。

ハイデガーの哲学の基本的な構えは、現存在つまり人間を起点として、存在の意味を明らかにしようとすることにあるが、その場合ハイデガーのいう現存在とは、概念化される以前に、事実としてこの世界に投げ出されているようなものとしての存在である。事実として存在しているからこそ現存在は、世界について問うたり、思考したりすることができる。デカルトのように、考えることから存在の確かさを導き出すのは転倒したやり方であって、事実として存在しているからこそ考えることも出来る、そのように発想を逆転する必要がある。そうハイデガーは主張するのだ。この事実としての存在から出発して、存在への問いにトータルに答えてゆくこと、それがハイデガーの戦略だと見ていいのではないか。

以下、ハイデガーの「存在と時間」について、引き続きテクストに沿いながら、その主張するところを読み解いていきたい。使用するテクストは、桑木務訳の岩波文庫版である(以下特にことわらない)。



存在への問い:ハイデガー「存在と時間」を読む
存在論史の解体:ハイデガー「存在と時間」を読む
ハイデガーの現象学:「存在と時間」を読む
現存在:ハイデガー「存在と時間」を読む
世界内存在:ハイデガー「存在と時間」を読む
世界の世界性:ハイデガー「存在と時間」
共同現存在:ハイデガー「存在と時間」
情態性と了解:ハイデガー「存在と時間」を読む
不安:ハイデガー「存在と時間」
実在性と真理:ハイデガー「存在と時間」

死への存在:ハイデガー「存在と時間」
良心の呼び声:ハイデガー「存在と時間」
現存在の時間性:ハイデガー「存在と時間」
時間性と日常性:ハイデガー「存在と時間」
時間性と歴史性:ハイデガー「存在と時間」


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