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フロイトの社会理論


フロイトの社会理論の特徴は、個人を対象とした精神分析の成果を、社会集団に適用したことである。そこで、まず、精神分析とはなにかと言うことが問題になるが、フロイトの精神分析の根本的な特徴は、人間の行動の少なからぬ部分を無意識によって基礎づけたことにある。その無意識が個人のみならず、集団をも動かす要因になっているとするのが、フロイトの基本的な考えである。

つまり、フロイトの思想史上の意義は、無意識に光をあてたことにある。デカルト以来の西洋思想はもっぱら意識を舞台として、人間の心的活動についての思弁を展開してきた。存在するとは、ある意味意識されているということであって、したがって意識されないもの、つまり無意識の対象は存在しないとされた。意識こそが世界全体を満たしていたのである。

フロイトはそれに対して、無意識の重要性を指摘した。無意識は存在しないのではなく、たんに意識の表面に顕在化していないだけである。それはそれ自体として存在しているのであるが、普段は意識されることがないので、存在していないように見えるだけだ。ところがあるとき、その無意識のものが顕在的な働きをする。そればかりか、意識の内容よりも強い影響を人間の行動に及ぼす。

無意識のこのような働きをフロイトは、精神病理の臨床的な治療を通じて確信するに至った。ヒステリーとか脅迫神経症のような精神病理現象は、無意識を仮定しないでは説明できない。夢のような、精神病理現象とはいえない精神現象も、無意識を仮定しないでは説明できない。逆に、無意識を前提とすれば綺麗に説明できる。しかも、その無意識への働きかけを通じて病的な症状を治療することができる。

フロイトがそのように思うようになったのは、かれがまず臨床医師であって、患者の病気を治さねばならぬという実際的な目的をもっていたからである。無意識というのは、基本的には仮説にすぎないが、それにもとづいて事象が見事に説明できるばかりか、患者の治療にも大きな効果をあげるとなっては、単なる仮説の域を超えて、科学的に根拠のある理論といえるものになる。科学的というのは、事象の間に因果関係を確立できるような思考のことである。一定の事象が認められ、それに一定の因子が働くと、かならず一定の結果があらわれる、ということを説明できることが、「科学的」という概念の意味するところである。

フロイトは、無意識を前提とすることで、人間の心理的あるいは精神的な事象が矛盾なく整合的に説明できることを確信して、無意識に立脚する壮大な理論を展開した。人間のあらゆる行動には無意識の内容がなんらかの形でかかわっている。しかも、その無意識の内容が意識的な精神活動を強く規制することが認められる。意識的なものは、人間の精神活動のほんの一部に過ぎないのであって、その底部には膨大な無意識の領域がある。それを明るみに出すことによって、われわれは人間の精神の働きを十全な形で理解することができる。フロイトはそのように考えて、無意識の分析に突き進んでいった。その成果は主として精神分析学という形にまとめられた。精神分析学というのは、精神を意識と無意識の統合体と捉えたうえで、それらがどのように絡み合って、具体的な人間の行動として現れるかを、体系的に述べたものである。

フロイトのいう無意識の内容は、人間が本来持っている本能的な衝動からなっている。その衝動は、とりあえずは性的な性格を強く帯びており、フロイトはそれをリビドーと名付けたのであるが、そのリビドーは普段は意識によって抑圧されている。だがなんからの事情からこの抑圧が働かなくなると、衝動が表面に噴出してくる。それがさまざまな精神病理現象をもたらす、とフロイトは考えたのである。その衝動には後に、攻撃衝動とか愛の衝動も加わり、また、死の衝動と生の衝動との対立といったものに拡大し、壮大な仮説に発展していく。そうした仮説を駆使しながらフロイトは、人間精神にかかわるさまざまな事象を矛盾なく説明しようとしたわけである。

フロイトは、臨床上の要請から無意識の存在に着目したということもあって、当初はもっぱら、個人の精神的領域について無意識の持つ意義を究明しようとしていた。無意識の問題は当面は個人心理学の問題だったのである。ところがやがてフロイトは、文化的・社会的・宗教的な領域についても深い関心を抱くようになり、そうした領域の問題を集団心理学として考えるようになった。いまでいう社会心理学に相当するものだ。その集団心理学をフロイトは、個人心理学と同じ基盤の上で展開してみせた。個人の心理的な事象が無意識によって説明できるように、集団の行動も無意識によって説明できると考えたのである。

フロイトの集団心理学についての最初の業績は「トーテミズムとタブー」である。これは人間社会に宗教が発生したプロセスを解明したものだが、その宗教の発生をフロイトは、集団的な無意識に基礎づけたのである。個人の場合には、無意識の働きは、幼年時代のエディスプコンプレックスにおいて最初の頂点に達する。エディスプコンプレックスとは、無意識の衝動すなわち性的なリビドーを抑圧するプロセスとして現れるのであるが、それとほぼ同じことが集団についても見られる。集団レベルにも無意識というものがある。それは集団的無意識と呼んでよいものだが、その集団的な無意識のうちに集団の衝動が抑圧的に封じ込められる。その衝動とは攻撃衝動であって、その衝動に駆られた太古の人類が、父親を殺して自分たちが力をもとうとした。その父親殺しの後悔が人間集団に宗教をもたらした、というのがフロイトの基本的な考えである。トーテムというのは殺された父親のことであり、その肉を食うことは父親殺しを象徴的に再現してみせることを意味する。

こうした、個人心理学における無意識のもつ意義を集団レベルに拡大適用したのがフロイトの社会理論の基本的な在り方である。かれは宗教の起源からはじまって、倫理とか道徳またそのほかのさまざまな文化的事象についても同じような方法を用いて説明した。フロイトによれば、無意識の仮説の中核となるのは、人間が本来持つ衝動である。その衝動は当初は性的なリビドーとして捉えられたが、やがては、攻撃衝動と愛の衝動との対立、さらに死の衝動と性の衝動との対立という具合に次第に拡大していった。それでも、人間の本源的な衝動が無意識として抑圧され、その抑圧からさまざまな現象が生じるとする点は変わらない。その現象は個人レベルでは夢とか神経症という形をとり、集団レベルでは宗教をはじめさまざまな文化的な事象の起源となる。

こういうわけであるから、フロイトが展開した理論は、無意識学説といってもいい。冒頭でも言ったように、人間の精神活動はもとより、文化的な現象にまで無意識を持ち込んで説明しようというのは、フロイト以前にはなかったことだ。無論、無意識自体はフロイト以前にも存在していた。でなければフロイトが無意識を「発見」することはできない道理である。フロイトは無意識をあくまでも「発見」したのであり、「発明」したのではない。発明ならば、何もない状態から何かを作り出すということもできる。しかしそれはあくまでも作り物である。しかし科学というものは、人間の都合で勝手に作られるのではない。それはもともとあったにもかかわらず認識されていなかったものを、認識の明るみに引き出すことなのである。そういう意味でフロイトの無意識は、実体をともなった存在なのである。

無意識の発見ということでは、フロイトの同時代人ベルグソンにも貢献が帰せられる。ベルグソンはフロイトと同じユダヤ人で、科学者ではなく哲学者であったが、彼独自の視点から無意識を発見した。ただ無意識の捉え方には相違がある。フロイトは無意識の内容を、抑圧された衝動と考えたが、ベルグソンは、そのように狭くは考えなかった。人間の精神というものは、対象のすべてをありのままに受け取るわけではなく、その一部を切り取って受け取るにすぎない。自分の行動にとってとりあえず重要な意味を持つものだけが対象の全体から切り離されて意識の内容となる。これをベルグソンは分節という。対象の分節は人間の行動を有効に行う上で欠かせないプロセスである。そのプロセスを無意識が支えているとベルグソンは考えるのである。無意識の内容は、必要な都度意識の表面に出てきて、人間の認識作用を支える。それは、新たな認識対象を、かつて体験した認識の枠組みに当てはめることによって成り立つ。つまり、フロイトが無意識を否定的なイメージで見るのに対して、ベルグソンはその積極的な働きを強調するのである。

フロイトとベルグソンがほぼ同時に無意識を「発見」したことの背景には、かれらがユダヤ人であったという事情が働いていたようである。ユダヤ神秘主義には、仏教でいう阿頼耶識に相当するようなものを重視する傾向があることを、日本の思想家井筒俊彦が指摘しているが、そのユダヤ神秘主義の無意識重視の思想を、フロイトとベルグソンがともに受け継いでいたことは、十分考えられることである。

ともあれフロイトが、個人・集団をとわず、人間の精神的な領域に発している事象を、おしなべて同一の原理、すなわち無意識の働きという原理に基いて説明しようとしているいことは明らかである。そのうち、集団心理にかかわるものが、フロイトの文化論として展開された。ここではその集団レベルにもっぱら着目して、フロイトの理論の特徴を確認してみたいと思う。


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